★<大学生6人のグループ「Blined Project(ビーラインド プロジェクト)」が、視覚障害者と晴眼者が一緒に楽しめるゲーム「グラマ」を開発した。おもりの重さを言葉で説明し合い、てんびんに載せてつり合ったら「成功」>。東京新聞(2022年5月23日)の記事です。記事のタイトルは<視覚障害者と晴眼者、ゲームで心一つに その名も「グラマ」 大学生グループが考案>。

(写真は、ビーラインドプロジェクトのサイトから)
★このプロジェクトは、現状はNPO的な起業のスタイルのようですが、やがては財団とか社団とか企業とかNGOとかいろいろな選択肢が広がっているのでしょう。
★メディア的には、自分たちの発想と活動と生産物の循環が、社会貢献という領域にしっかりつながっているのがまずはおもしろいのでしょう。わたくしも素敵だと思うし、興味深いわけです。
★教育的な側面からは、このような活動の源が中学校の時や高校の時のプロジェクトベースの体験にあったのだとしたらすてきだなと。というのは、大学受験勉強をして合格したら終了という従来型の勉強ではなく、大学に入ってから、社会に出てからも身近な気づきを共有するメンバーを巻き込み、逆に巻き込まれ見れども見えなかった世界を創っていく、言語の限界は世界の限界だという言説を逆手にとって、その限界を新たな言語をつくって、突破していくというエージェンシーとかコンピテンシーとかいわれているパワーを生み出していくトランジション教育の1つの象徴的な活動をこの6人の大学生は体現していると感じるわけです。
★このようなケースがどんどん増えれば、ますます中高はトランジション教育を進路指導やキャリアデザインに置換えていくことでしょう。もちろん、トランジションという言葉はどうでもよいのです。ただ、進路指導というより新しい感覚が伝わるかなと。立教大学の中原教授などが言っている言葉を借りてきているだけですが。
★ともあれ、このようなトランジション教育が中高で行われれば、ディストピア的なシナリオは避けられるのではないかと楽観的に思っているのです。
★それにしても、このプロジェクトのネーミングがすでに、新しい世界を可視化しています。Blinedということばは、Blindという視覚が不自由という言葉を解消する造語になっていると思いませんか。Bとeを差し込んでいるのです。つまり、Be。blindというのは、感覚としての目以外にも心の壁として目が見えないという意味がありますね。マスクをかけるとか真実が見えないとか。
★つまり、視覚障害者には難しいと思わせていたアンコンシャスバイアスというブラインドを開いてしまう存在の光という意味が加わっていて感動的です。もちろん、私の勝手な主観で妄想にすぎません。それでも、新聞記事の意図からはそう外れていないのではないかと。
★そして、このゲームのネーミングも洒落ています。フランスの哲学者デリダのグラマトロジーのグラマにかぶる意図があるのではないかと。この哲学者もまた「存在」について思い巡らしました。私は哲学は門外漢なので、詳しいことはわかりませんが、存在するようにするものと存在するようにされているものとか、見えるようにするものと見えるようにされているものなどの差異をめぐって展開するコンテクストがあった時代の人だと推測します。
★そして、ここのパラドクスは存在するようにするものも見えるようにするものも、気づかなかったり見えなかったりするということです。ここにアンコンシャスバイアスが広がる理由があるのでしょう。
★しかし、それに気づくのは五感であるから、気づかなかったり、見えなかったりするのだけれど、関係性の中では、それは気づくことができたり見ることができたりするのでしょう。
★デリダがそういう感じだったかどうかは、私はわかりません。たんなる妄想です。
★しかし、このような妄想をこんこんと湧かせる衝撃が、このプロジェクトや作品にはあります。ケアリングだったり、哲学的だったり、作品と参加者のつくるダイナミクス空間というパフォーマンス全体の息吹を生成するインスタレーション的だったり。
★このビーラインドプロジェクト(記事には6人とあるが、今では8人)のメンバーは中高時代、あるいは大学に入ってからかもしれませんが、マルチプルインテリジェンシーズをフルに生かす体験をしてきたのではと。
★ともあれ、このようなZ世代の新しい動きは、今までのスタートアップやアントレなどとこれまで注目されてきたものとはどこか違う動きだと思います。どこが違うのか?それはこれから多くの人がかかわることで、時代が明確にするでしょう。
★ここに書いたものは、私のあくまで妄想です。刺激を受けて書きたくなっただけです。6人の大学生がどう考えているのかということとは無関係です。ご了承いただければ幸いです。
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