創造的対話

2019年6月21日 (金)

希望の国のエクソダスの時代?(1)

★21世紀前夜、村上龍さんの「希望の国のエクソダス」が世に出て、衝撃的だったのを記憶している。最近出遭う中高生の中には、ポンちゃんに似た心性の人物がいて、おっ!これはと思う。もちろん、ポンちゃんのようにエクソダスを試みるというより、大人の世界と中高生の世界のこれまでの格差やギャップをフラット化し、新しいバランスを生みだそうという戦略上の違いはある。

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★しかし、そのギャップに何か課題を感じ、解決しようというアクションをしているところは、同じ心性だろう。このような中高生の存在の実態は、データ上はわからない。しかし、実態はかなりの人数がいるのではないか。

★大学入試改革や学習指導要領の改訂は、ここを無視している可能性がある。ときどき注目されるが、それはむしろレアケースで凄いという発信の仕方によって、このような事態は当たり前ではなく、特別なのだという幻想を蔓延させている可能性がある。

★あらゆる、日本の課題山積の事態を、この希望の国のエクソダスの側からみたら、まったく旧態依然としたやはり中高生がエクソダスしたくなるような課題解決策だらけということはあるのではないだろうか。

★しかし、どうしてこういう中高生のダイナミックな動きの兆しが生まれてきたのだろう。グローバリゼーションやネオリベラリズム、ポピュリズム、再帰的近代化、社会の個人化、シリコンバレー化などの複雑な矛盾だらけのシステム融合が、生み出したものであろうことは、たぶん誰でもわかるだろうが、その新しい生成は、どのような考え方で捉え直せばよいのだろうか。

★この方法論は、現状の社会学や政治経済学、国際関係学、情報科学、心理学、哲学、教育学などではとらえられない動きである。ここをどうとらえるか、その足場や立ち位置はどこにあるのか?

★誰と議論すればよいのか?おそらく中高生と対話する以外にないのだろう。大人や教育評論家からみた教育論はすべて役に立たないと捨てたほうが良いだろう。極端かもしれないが、その仮説から出発するしか突破口は出現してくれないような気がする昨今である。

★なお、このエッセイは、そういうわけで、特定の誰かに語りかけているものではない。新しい何かを求めて自分の想いをメモとして書き込んでいるだけである。

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2019年6月19日 (水)

どの立ち位置で思考し対話するか?

★かつて大学院生だったころ、大学は違ったけれど、上智大学のホセ・ヨンパルト教授に思考トレーニングを受けた。マスター終了後、博士後期に進まずに(いや進めずに^^;)、新しい道はないか模索していたころ、Nという塾に出遭った。塾とぃう立ち位置で内部から世界を変えることもありかなと、ホセ・ヨンパルト教授にこんな道見つけましたよと報告がてら対話しに行った。

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★静かな祈りの空間のクルトゥルハイムで、やあやあ久しぶりと大歓迎を受けたが、塾の話をするや、怒りの形相になった。なぜ、そこから発信しなければならないのか、どんなにそこで論じても、世界を変えるどころか、現状の闇を強化するだけだ。後悔するから、必ず戻ってこい。

★ギリギリ必要悪として、君の道を認めたとしても、その境界線を君が踏み越えるのは極めて残念だと普遍的父親として言っておくと。

★心の中で、やはり学者は世の中の事をわかっていないし、そうはいっても自然法論では社会は変えられないじゃないかと思ったが、必要悪なら神様もその存在を認めているし、もしかしたら神の計画だからいけるところまで行ってみますと。

★すると、神の計画を持ち出してはいけない。自由意志なのだから、君が決めたことだ。戻ってきたらまた会おうと一応握手をして別れた。その握手は結構強く温かいものだったから、言葉と行いのギャップを今も覚えている。

★教授は他界したから結局再会は果たせなかったが、今なら会ってくれただろうか?相変わらず二足の草鞋だねと普遍的父親のメッセージをもらうだろうか。ただ、どのポジショニングで考えるかが大事であることは、今かなり了解している。

★結局自分の想いは、関係によって変換されてしまうのである。自分の想いを果たせる関係を創れる場が大切であると実感している今日この頃である。

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2019年6月18日 (火)

全く新しいフレームを創るために 石川一郎×鈴木裕之×本間勇人のクレイジーコミュニティ≪TFR≫を求めて!

★2020年大学入試改革はいよいよやってきた。この大学入試改革をリサーチし本を執筆・編集したきた3人が久々に飲み明かした。そして、やはり日本から見ている改革では、日本は変わらないというのはわかってはいたけれど、改めて確認をした。

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★だから、今業界で固執されているPISAだとか、大学入学共通テストだとか、AO入試だとか、探究の学習の時間だとか、主体的で・対話的で深い学びという日本流儀の制度をいったんないものとして何が普遍的に残るのか考察してみることにした。

★今の日本の大学の学問ですら、ないものとして、その代わりに何がありうるのか考えることにしてみた。

★つまり、これらすべては、未来を語りながら、結局は自己利益以外の何物でもなく、普遍的な世界市民的な見地で考えられているものはないとラディカルに仮説を立ててみた。

★すると、これらのまやかしの化粧を剥いでみると、そこに残る自然体というか本質は、「対話」しか残ろないことに気づいたのだ。

★大学入試改革から考えればよい市場はもちろん厳然としてあるし、それはそれでよいと思うが、石川一郎×鈴木裕之×本間勇人は、普遍的な対話という存在理由から考えることにした。そこから、教育を組み立てなおしてみようと、それは森の道を行くようなものであるかもしれないから、とりあえずTeam Forest Roadとしておこう。

★世界的見地からみた教育とは何か?その存在理由ははっきりしているので、何を創るかが最重要な今日この頃である。もっとも世界的見地だけではまだ、真理が曇っているかもしれない。しかし、日本から見ているものほど曇ってはいまい。

★TFRは、20人くらいでコラボしていく。年内にお披露目したいと考えている。そのときの名称はTFRではない。TFRという名称は、そこにたどりつくまでの道行の名づけに過ぎない。

★いったいどうなるのか?それはわからない。とにかく、いったん中学受験業界の3種の神器、教育産業の三種の神器と呼ばれているネットワーク以外と組み立てようと。そうしないと市場が新しくならない。市場が新しくならないと対話の質が変わらない。変わろうとか変えようとかいいながら、フレームを変えないという自己欺瞞と厳しく対決していく自己内省から始めたいと思っている。

★私たちが考える≪対話≫は哲学的対話ではない。ジェネレーターとしての新しい市民としての対話のことを示唆する。

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2019年6月15日 (土)

かえつ有明 思考力入試とダライ・ラマ

7月7日、かえつ有明で、<教育者向けプログラム「教育者が自分自身を癒すために」>という集会が開催される。

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★講師は、Dr. バリー・カーズィン(Barry Kerzin MD)。大学教授で、チベット仏教僧侶で、ダライ・ラマ法王第14世の医師である。当日は、日本語通訳付だそうだ。

★そして、登壇者は、我らが佐野和之先生(かえつ有明高校 副教頭)、金井達亮先生(東京大学大学院 教育学研究科/前かえつ有明教諭で、プロジェクト科創設メンバー)。

★この教育者向けプログラムについて、ヒューマンバリュー総合研究所の教育者向けプログラム企画チームの大木理恵子先生(かえつ有明国語科教諭)は、同研究所のfacebookでこう述べている。じつにストーリーラインが美しい文章なので、全文を転載させていただく。

≪「うまくいかないのは、自分の力不足、努力不足のせい」と自分にダメ出しをし続け、がんじがらめになっていたときに、バリー先生の講座に参加し、初めてマインドフルネスを体験しました。


「教師に必要なのは、まず自分自身をケアし、心の傷を自らの手で癒し、自分を縛っているネガティブなものから解放してあげること」と語られたバリー先生の言葉を聞いたとき、自然に肩の力が抜け、あたたかいもので満たされていくのを感じました。容易に解決できない事態が日々次から次へと押し寄せる教育の現場で、刃を自分の内側に向け心にたくさんの傷をつくってしまっている教員の方々が多いのではないでしょうか。


それまでの私も「生徒のため」という言葉の前に、自らの心を置き去りにし、多くの傷に気づかないふりをして、ただひたすら走っていました。でもそれが、本当に彼らのためになったのかはわかりません。なぜなら、彼らのためにと思って行動を起こせば起こすほど、自分に対する自信は損なわれていったように感じられたからです。バリー先生に出会い、徒らに自分を見下したり、傷を放置して他者に貢献したりするのではなく、マインドフルな自分として健全な自信を取り戻すことが周囲に良い影響を与え、豊かな学びの場を創っていくことにつながると、実践を通して学ぶことができました。


バリー先生の澄んだ眼差しと柔らかな声に包まれ、内なる平和を体感できる静謐な時間。私にとって非常に貴重な時間です。そんな空間の中で、みなさまと共に学び、語り合い、生徒たち一人ひとりが輝ける教室の実現を目指していきたいと思っています。≫

★かえつ有明が、人気校であり、その思考力入試が信頼されているのは、このように教師のセルフ・コンパッションと何もできないけれど、他者へのコンパッションという2つの原理によって生成されているマインドフルネスが充満しているからだ。

★一方で、2019年6月9日、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のTwitterアカウントが1本の動画を公開。そこでダライ・ラマ法王は、こう語っている。

「究極の幸せや喜びは、思考によってのみ得られるのです。そして、宗教への信仰心から得られるものでもないのです。信仰するのではなく、考えなければなりません。我々人間の頭脳を使い、科学的に考えなければなりません。神様や仏様に祈る必要はないのです。」

★エッ!!~!!!と思った方も多いと思う。古今東西の真の宗教者は、実は人間は考える葦であることを語るわけである。であるからこそ、物心崇拝や物象化への警鐘を鳴らしているわけだ。コモディティ化というのは、彼らにとっては物象崇拝である。かえつ有明の思考力入試が重要なのは、このコンパッションという内なる「思」いが「考」えを生み出す意味で、「思考力」を活用するところにある。

★まさに、それは、J.J.ルソーの「自己保存」と「憐憫の情」の2つの原理で成立している自然状態である。もっとも、ルソーは「自然状態」は長続きしないから、いったんすべてをすてて「全体意思」ではなく「一般意思」に従うことを市民が約束する社会契約を結ばざるを得ないとなる。

★しかし、ルソーの系譜のカントは、自然状態を物自体として、不可知の世界においやったり、ピアジェのように幼児期の非認知的能力に位置づけたりして自然状態の発想のアップデートが、数多くの人になされてきたし、今もなされている。

★≪私学の系譜≫も、そうであるが、自然状態は、建学の精神とし、社会の現実対応を中心として教育は実践されてきた。この建学の精神と社会の現実のギャップを近づけようとするのか、ほどよい距離をとろうとするのか、まったく無視するのか、完全一致させるのかで、私学のタイプは4つに分かれる。これは2018年10月17日に、本ブログに書き込んだ。詳しくはそちらを読んでいただくことにして、そのとき活用した座標をもう一度みてみたい。

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★この4つのタイプは、まさにその通りになったのではないだろうか。かえつ有明は、ダライ・ラマ型学校なのである。ルソーの自然状態を、容易に解決することができない事態が次から次へと現れる社会状態を生きる人間の内面にコンパッションという「思」いに変換し、自らどう生きるのか「考」える葦となるわけである。

★そして、葦は独り生息するのではない。その群生の光景は感動的だ。かえつ有明という共同体は、教師も生徒もコンパッションから生まれるシンキングを大事にしている唯一無二の学校なのだ。

 

 

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2019年6月12日 (水)

「深い思考スコア」と「偏差値」(了)私立公立中高一貫校の入試問題が巻き起こす思考力革命 硬い思考から柔らかい思考へ

 ★晶文社学校案内編集部発行の「首都圏中学受験案内2020年度用」に記載されている「思考コード」で「深い思考スコア」を算出して分析することによって、私立中学入試あるいは公立中高一貫校の適性検査に向けて準備をするとうことは、「深い思考力」を学ぶことになるということが明らかになった。

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★上記表をみてみると、私立中高一貫校の受験準備を<一般的に>した場合、やはりなんといっても算数と国語の<勉強>が中心になってしまう。公立中高一貫校の適性検査に向けての準備は、新タイプ入試の<学び>のみである。

★もし、私立中高一貫校の受験準備も新タイプ入試に照準を合わせると、新タイプ入試の<学び>に力点が置かれることになる。しかし、私立中学受験準備塾に通うと、基本は、算数と国語の<勉強>となり、新タイプ入試の<学び>については各学校で開催されている新タイプ入試のための対策ワークショップで<学ぶ>ことになる。

★思考力入試セミナーを行っている聖学院や工学院、静岡聖光学院などのワークショップは有名だ。

★もし公立中高一貫校の適性検査のみならず、私立中高一貫校の新タイプ入試も活用するという受検生は、新タイプ入試でも適性検査型入試を受ける場合は、塾の公立中高一貫校の対策コースで十分に対応でできる。しかし、公立中高一貫校の適性検査の準備だけでは、思考力入試や自己アピール入試などを行っている学校の対策としては不足する部分がある。同じ「深い思考問題」でも、思考コードで分析すると、ズレがあるからだ。

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★つまり、算数と国語で出題する「深い思考問題」は、論理的に考え表現する問題でいわゆる難度の高いB2B3の領域が中心である。適性検査型は論理的に考える一方で、それに基づいて創造的思考を生み出す、つまり学びに基づいた創造的思考問題を重視している。

★思考力入試は、C3という直感的な創造的思考が中心で、そのインスピレーションを刺激するB2B3問題やC2問題が足場づくりとして用意されている。だから、一見難度が高そうなのだが、ものの見方を変えると気づく仕掛けになっているから、B2B3のみの準備をしている生徒には、わけがわからない可能性がある。

★C3は、隠喩的には、非ユークリッドやトポロジーなどノーベル賞受賞者が活用する柔らかい思考で、それに比べると、B2B3は、あくまで相対的だがユークリッド的な硬い思考である。

★今この柔らかい思考領域が注目されているのは、この領域こそAIでは、まだ踏み込めない思考力領域だからだ。もちろん、この領域は見える化されてすぐに硬い思考で乗り切れるようになるから、常に新しいものの見方考え方への知の旅をしなければならないのだが。

★そして、今この柔らかい知性、レビ・ストロースの言葉でいえば「野生の思考」が注目されているのが、幼稚園などの就学前教育なのである。2020年大学入試改革やそれに伴って改訂されている新学習指導要領に影響を与えている考え方、特に「主体的・対話的で深い学び」と表現されているアクティブラーニングやPBLは、ハーバード大学、MITメディアラボ、UC系大学、スタンフォードなどが提唱している学びであり、北欧の学びである。

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★ヘックマン教授、おおたとしまさ氏、レズニック教授の上記写真の本が注目されているのも、その証拠の一つであろう。就学前教育において、算数や国語のような勉強はあまりしない(最近はこの領域をすでに行ってしまうところもあるようだ)。「砂場」のような、硬い思考の領域と柔らかい思考の境界を簡単に往来する創造的な思考を体験している。創造的思考は、想像、発想、協力なども必要で、必ずしも認知的な能力だけでは、生まれない。

★ヘックマン教授がデータで示した非認知的能力が生成されている。これを柔らかい思考と、ここでは呼んでいるのだが、この思考領域は、20世紀までの教育は初等中等教育で排除されてきた領域である。

★それが、21世紀になって、シリコンバレー草創期に生まれた柔らかい思考領域が重要であることが広まり、その領域は、実は就学前教育にあったことが再発見されたのである。

★一方で、その柔らかい思考ができる人材が、18歳になるにつれてが少なくなってしまっているという教育への見直しも起きたのである。この本当の意味での21世紀型教育は、まだまだ道半ばであるが、避けることはできないし、止めることもできない。

★そして、中学入試における多様な新タイプ入試は、この柔らかい思考領域を開き始めたのである。それゆえ、かつての中学受験準備のための<勉強>をしている層ではなく、おけいこを続けてきた柔らかい思考領域で<学んで>きた生徒が、新タイプ入試に挑戦して、私立中学に入学する新しい道が開かれたわけである。

★新タイプ入試は生徒募集における学校側の創意工夫した方法論ではあるが、市場がそれを活用するウネリが生まれてきたということは、そのような柔らかい思考の道が望まれているということも示唆されている。

★PBLやアクティブラーニングを行っていないで、新タイプ入試だけやるとしたら、それは入学後、柔らかい思考を求めている生徒の期待を裏切るだろう。

★逆にアクティブラーニングやPBLをやっていながら、新タイプ入試をやっていない学校は、そのアクティブラーニングやPBLは、硬い思考領域で難しい問題をやっているというカリキュラムデザインになっている場合が多い。

★硬い思考から柔らかい思考へと言ったとしても、もちろん、硬い思考を排除することはない。むしろ両領域の境界線を往来できる柔軟な創造的思考のことを示しているととらえるのが正しいだろう。

★この21世紀のウネリを「思考力革命」と言いたい。そして、この始まりは1997年、あのジョブスが宣言した。世界を変える人になろう。クレージーになろう。つまり天才に!それはもちろん、今までのように一握りの人間の特権ではなく、すべての人に機会はあるのだと。

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★それを1分の動画にしたのがあの<Think different>ではないか。幾人もの天才を登場させて、その最後は、無名の少女の未来を見つめ眼差しで締めくくるストーリー。その未来の道は<思考力革命>によって確かなものになるだろう。

 

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2019年6月 9日 (日)

高校時代 ある友に贈る

★私の高校時代は、当時は憧れの下宿生活だった。大学時代も寮生活をしていたし、とにかく「自由」を謳歌していた。しかし、お金はなかったし、アルバイトも今のように多様でなかったから、ラジオとレコードと本と下宿の仲間との議論がたいがいの楽しみだった。部活はほどほどで、硬派ではなかった。あと、よく友人たちが泊まりに来ていた。何せ歩いて5分くらいのところに学校はあったし、中島公園やすすきのに歩いて行けたし、路面電車でも地下鉄でもすぐに中心街にいけたから。

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★そうはいっても、結構スリリングな時代で、小学校後半から中学時代には大学紛争が全国に飛び火ていたし、同時に高校紛争もその影響をうけていた。私が高校に入学した時、下火になっていたが、そのおかげもあってか、制服自由化時代にはいっていた。それでも、学生運動はときどき教室を襲って、集会もあった。

★だから、自ずと、下宿の夜は、議論になった。資本論を読んでいる先輩もいたし、アインシュタインの相対性理論やそれに対峙する量子力学と国家を結び付けて語っている先輩もいて、当然彼らはぶつかりあった。私は、高度経済成長期の影響を受けた24時間働けますかというサラリーマン家庭に生まれ、勝ち抜くために学歴を身につけよと幼い時からいいまくられていたから、親からの解放を意味する下宿生活は単純にうれしかった。

★ただ、そんな家庭なのだが、なぜか芥川龍之介全集がひっそりと書棚の片隅にあった。中学時代の日曜日の朝は、たいてい芥川龍之介の本を読んで、何か毒をくらっているようだった。怖いもの見たさというか。

★だから、下宿でのそんな議論も、意外と楽しんで参戦できた。青春と言えば青春だけれど、時代の背景に大きな世界の影があって、それに気づかずに、立ち向かって24時間飛び回っている父親の後ろすがたをみて、少なくとも、この道を選ぶことは、芥川龍之介を読むたびに、ないなあと思っていた。

★芥川龍之介の「侏儒の言葉」は、そういう意味では、資本主義の道も社会主義の道もとらず、第三の道はないか模索する自分を形成した。下宿の中との話は、社会主義に偏るか科学主義に偏るかだった。そのどちらにも、与することができなかったというのも、自分を形成するのに影響をしただろう。もちろん、芥川龍之介自身が、それを模索して、見いだせず、おそらく自殺の道を選んだということが、衝撃的なわけで、自分は芥川とは違って、第三の道を創り出す使命を抱くことになった。

★芥川から学んだことは、見方を変えるというコトだ。だから芥川自身の見方もそのまま受け入れることはしないという見方を学んでしまったのだろう。斜めから考えてしまう習性がそのときついたのかもしれない。

★それでも、自分の今でいうキャリアデザインは、2転3転した。両親の強い意向は、芥川龍之介的には受け入れるうわけにはいかなかった。北海道という地は、仕事が少ない。医者になるか役人になるか銀行マンになるかしか、当時は、いわゆる立身出世はできない。両親もそういう当時の常識をまとい、私の人生に介入した。

★私としては、当時理系のクラスにいたが、いわゆる転向組になろうとしていたから、担任の先生も両親もこぞってどうしてだと問いただしたが、文学部にいこうと思っていると、哲学科にと言うと、両親、特に父親は、下宿させたのが間違いだった。危険思想にかぶれてしまったと嘆き、落胆し、下宿の費用を出さないと迫って来た。

★それは、節約しながら毎月レコードを買うお金がなくなるから、困ると思い、少し考えさせてほしいとなだめ、危険思想ではなく、むしろそういう思想を撃破したいと。社会主義なんて頭から考えていないし、かといって、おやじのように資本主義のシステムの中ではたいへんだろうから、そこをなんとかしたいだけだよと。ああ、じゃあ小説家とかではなくて、ジャーナリストとかなのかと。

★いやいや、もうちょっと考えさせてと。しかし、おやじは後に本社から飛び出して会社を起こした。プロパンガスや液体水素を扱うのが本社だったが、高度経済成長期だったから、その周辺商品もつくって販売。北海道から東京、東京から関西、関西から釧路と転勤した。その都度学校は転校。それで、高校は下宿をしたいということになったわけだ。

★そのおやじは、考えてみれば理系出身で、アイデアマンだったのだろう、当時としてはユニットバスや冷凍食品を販売する会社は早すぎたかもしれない。最後は、北海道は都市ガスインフラでは回らないから、プロパンガスを販売するインフラ子会社にいきついた。雪がふると、プロパンガスボンベイが埋まって、メータがみえにくくなる。気づかないうちにガスがなくなると大変なことになる。

★そこで、今考えてみればどんなコンピュータで計算していたのか分からないが、各家庭の消費量を計算して、ガスがなくなる直前に自動的に交換するシステムをつくって、販路を拡大した。しかし、旭川の支社がプロパンガス爆発を起こし、責任をとって会社を辞めた。早期退職で、本社に株を売り、悠々自適にと能天気にくらしていたが、バブルが崩壊し、退職金はすべて株に消え、自分は癌になってあの世にいった。

★サラリーマン戦士で終わらずに、自由に動けたのだから、高校時代の今でいうキャリアデザインの葛藤は私よりも父に影響を与えたのかもしれない。葬式のときに、父と一緒に働いていたスタッフの方々がおしよせてきた。会社を辞めて数年たっているのにと思っていたら、本社で冷遇されていた私たちを引き連れて会社をつくり、自社株を買うことから始めてくれたと話を聞いた。なんだ、今でいうストック・オプション的発想じゃないか、はやく言えよと思った。

★おやじが、私にむかって危険思想におかされているのではないかと指摘した時、芥川龍之介の侏儒の言葉の一節を思い出していた。「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である」と。だから、親父の方が危険思想なんだよと思ったが、そういい返さずに、危険思想をなんとかするほうに回るといって、互いに違う意味で了解するという作戦を考えついたわけだったが、おやじも当時の常識をいかに破るかという想いで仕事をしていたのかと、お通夜の時に思ったのだった。遅いよ。

★それにしても、なぜ芥川龍之介の全集が我が家にあったのだと、葬式の後、おふくろに聞いたら、それは自分が若い時に読んだ本だと。エッ!そうなの。まったく想定外だった。おふくろは、悩む人ではない。父にも頼らず生きてきた人だ。おやじは、退職後、ニコニコおふくろの付き人然としてついて回った。おふくろはめんどうだと言っていたほどだ。だいたい、おふくろは結婚前はお役人だった。

★青春時代は、熱にうかされる。おまえもそうだろうぐらいにしか思ていなかったが、どこでどう間違ったか、どんな仕事をしているかわからない。まあ、生きて行っているのだから、かまわないがと。そして、おもむろに、おふくろの父親は、彼女が小学校2年生の時に亡くなった。政治犯で逃亡して樺太あたりで亡くなったらしいとボソッと語った。

★血は争えないというコトかなと。おいおいこちらは危険思想家ではないよというと。母が父親をかばうように、何を言っているのだ、戦争中だから政治犯だっただけで、おもえのいうなんとか社会をよくしたいというやつじゃあないか。おまえと同じだよと。でも、それでは、生きていけないよ。芥川龍之介は、青春の思い出に過ぎない。まともにおいかけてはいけないと。

★まともにおいかけてはまったくいないから大丈夫だよとこたえたが、まあ、父を失い、子を失うのは、宿命かねと言われたときには、少しこたえたかな。それきり、おふくろは、こちらから連絡しない限り、連絡もしてこない。こちらは、弟夫婦にまかせきりな親不孝者である。

★とにかく、両親との話し合いを収めるにあたり、私の下した結論は法学部に行くというコトだった。芥川龍之介の親友恒藤恭が法哲学者だったということもあり、法学部に行ったって哲学は学べると浅はかにも思ったのだ。両親は司法試験でも受けるのだろうと、まあいいかというコトになった。

★大学に入ってからは、もう両親も諦めたのであろう、生きて行けるのかねえというのは口癖だったが。とにかく、寮生活は、私の視野を相当広めた。多くの先輩や友人たちは、きちんとした企業、政治家、大学の教授になっている。一度寮(聖ヨゼフ修道院)が閉鎖されるというコトで、懐かしい顔ぶれが集ったときがある。

★そんな中で、寮で出遭った友人の1人が神父になるというので、ただごとではないと、その進路について、何度も話し合ったが、君の考えは、危険思想なんじゃないのと、侏儒の言葉を引用されたとき、まさに、自分が小さき人間であることに思い知らされた。

★娘と進路やキャリアについて対話するとき、私はそのときのシーンを思い出しながら、話す。アーティストとして食えない道を歩み、国際結婚してバンドンと東京を行ったり来たりしている。妻は、夫婦ともにアーティストだから、生活を心配しているが、まああなたの子だもねと。そして、娘も、キャリアデザイン(今も続いているのだ)の話に触れると、グローバルの重要性と起業のはなしばかりしていていたよね。だからしかたがないよ。親の影響は嫌でも受けるものだからと。彼女なりの共感を得て、自分の道を応援してもらおうという算段なのだろう。やはり血は争えない。

★ある学校のオーナーに、本間先生は、中学入試の世界では、ちっとは名前が知られているけれど、そうではない世界に出たら、無名だよね。これからどうする。うちの顧問になるかい、うちの先生1人辞めさせれば、そんなことは簡単だよと。ありがたいお話を突然頂き、恐縮したが、そのために先生を辞めさせるわけにはいかない。それに、そのときは、私が壁にぶつかっていたときのことだから、温かい励ましの言葉以外の何ものでもない。まともに受けとめるのは無粋である。それよりなにより、本当に心の底に染みた。

★この歳になって、十牛図の十番目に一瞬到達した気分になった。もちろん、まだまだである。でも、自分のキャリアデザインは、ここにきて案外わるくなかったのではないかと。次の次元を開く機会がまたやってきたのではないかと。十牛図の十番目のキーワードは「対話」である。

★ひたすら、先生方や子供たちとの対話の時間を共有させていただく毎日である。

★今高校生と話をしていて感じるのは、少なくとも47年前の自分よりはるかにすさまじい人生に立ち臨もうとしているし、そのためのスキルや思考力も相当に豊かだ。だいいちICTなど、私の高校時代には身近にはなかった。海外留学している生徒も全校に1人いたかどうかだ。

★今も昔も、その都度激動の時代だったが、どう考えても、自分の時代よりもはるかに高校生や若い先生方は成長している。彼らに対して常識を実行する危険思想を排除すること。それが私のもうひとふんばりできるミッションかもしれない。ウザイと思われるかもしれないが(^^;)。

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2019年6月 8日 (土)

対話

★今日もそうだったが、このところ、先生方や生徒と(もちろん妻や娘とも)すてきな対話が生まれる瞬間が多く、驚きを感じる日々である。問答講義は対話とはいわないから、何とか授業の中で、ワークショップの中で、実は普段の生活の中で対話ができないかと対話している。

★その対話の始まりは、本間さん「これ」どう思いますかから始まったり、逆に私から「これ」についてちょっと教えてくれますかから始まることことが多い。

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★しかし、このような対話が始まるまでのスカフォルディング(足場づくり)は結構時間がかかる。「これ」は、実は共有されているからこそ、どう思うかと聞かれたり聞けたりする。傾聴とよくいわれるけれど、それは「これ」探しである。驚くのは。私は、半分仕事で半分なんだろう?たぶん探究なのだろうが、先生方や生徒の「これ」を見つけたときは感動するし嬉しいけれど、本間さんの「これ」を提示されるのは、思ってもいない僥倖である。

★「これ」は自分事であると同時に分かち合うコトが広がりや深みを増すことで、実は「自分事」ではなく「共有事」だったのである。どんなに話をしても、「共有事」にならない「自分事」は、「これ」にならない。

★問答講義やそのバージョンに過ぎない話し合いは、どちらか優位に立っている側の「自分事」に振り回される。対話は開かれない。

★それによくSDGsの問題など、自分事になっていないから、それを自分事にするワークショップとかあるが、なかなか「自分事」に世界の問題をできない。だって、ほとんどが、SDGsに反するような環境をつくって、ワークショップをやっても、参加している側は、なんだかなあと「自分事」から遠のく要素の方が多い。

★ビジョンを共有しようといっても、そう簡単ではない。でもだからこそ、「にもかかわらず」なのだ。「にもかかわらず自分事やビジョン共有なのだ」そこを互いに了解し、お互い助か合いたいけれど、それができない。そこが悔しい、スマナイと思ったッところから、対話は始まるのかもしれない。もちろん、明快にそこはわからない。ただ、瞬間の了解とでもいおうか。

★私は、感謝しなければならないのは、妻にも娘にも、そのことを指摘され、そこから対話できるようになったし、今でも盟友だけれど、それが続いているのは、ストラスブールでプログラムを運営している時に、君と話し合っても、こちらの想いとはすれ違いだと。エッ、同じだと思っていたが、またその友人よりもずっと長い盟友で、今も仕事をいっしょにしているが、3月にデジャブとおもえるようなまったく同じことを言われた。二人は冷静にではなく、少し怒りも込めていた。これはきっと同じ心的構造なのだろう。

★もちろん、彼らとは今も対話している(と妄想しているだけかもしれない)が、「これ」をその都度探すのは、結構楽しい。しかし、そう簡単に「これ」は現れない。「これ」は相当気分屋である。求めている時は出てきてくれないことが多い。だから、いつもサプライズということになる。

★昨日も今日も先生方ありがとう。そして今日会った高3生、ありがとう。

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2019年6月 4日 (火)

創造的才能 ハワード・ガードナーの考え方をきっかけに

★埼玉大の池内慈朗教授は、ハワード・ガードナーの研究家として有名だし、ガードナーの翻訳も出版している。そのガードナーの著書を読みたいところだが、私は、夏目漱石の「草枕」的読解リテラシーしかなく、告白すると、何せ、長文をリニアーに読み続けることができないのだ。

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★それゆえ、インターネットで概要を検索する。今回も池内教授の「ハワード・ガードナーの創造性理論および米国における関係諸理論」を見つけた。しかし、それとても、全文は読めない。ぱらぱらとめくって、次の一文にぶつかったところで、満足してしまう。

≪ガードナーは、創造性の定義を、「創造的な個 人が、専門とするドメインにおいて、あるいは、 少なくとも一つの文化的な集団のなかで、問題を 解決したり、時代の流れを創り出したり、新しい 問題を提起すること」としている。≫

★あとは、ガードナーのMI理論の本の断片とかピアジェやレヴィ・ストロースを研究していたという断片やミハイ・チクセントミハイと共感しているという情報やレッジョを尊重していたという情報を重ね合わせ、勝手に考える。だから、ガードナー教授がそう考えたのかどうかは実のところわからない。

★ただ、先日のカウンシルの時、立ち話で、聖学院の内田先生が、ガードナー教授は、創造性は多重知能とは別物ではなく、むしろそれぞれの知というドメインで働くのであると語っていたことが気になっていた。内田先生は、技術という教科ドメインを受け持っていて、そこで創造的才能を発揮している。いやむしろいくつもの多様な知の結合ドメイン(おそらくこれこそが教科横断的というものの真の在り方)で、創造的才能を発揮し、メディアに取り上げられ、市場というフィールドで認めらえている。

★まさに、ガードナー教授の創造性の定義を貫いている方なのである。その先生がそう言うのだから、もう一度ガードナー教授の創造性について調べよう思ったわけだ。

★すると、先の一文に出遭ったわけだ。ガードナーは、すべての個人が創造的才能者だと考えているかどうかは今のところ不明だが、すくなくともレッジョを注目し、就学前教育を研究し、幼児期のメタファー表現に創造性の作用を見ているから、生まれたときは、みな創造的才能者だとみなしているだろう。ただし、教育が始まると、MIや創造性の作用が十分に発揮できる教育が行われてこなかったために、創造的才能は摘まれてしまうと考えている可能性はある。

★それを取り戻すために、MI理論や芸術教育のプロジェクトを展開してきたのだろう。

★さて、ガードナーと内田先生のプログムを通してわかることは、創造性は学びを通して生まれてくることは可能だというコトだ。それはメタファー機能を学びに活用することなのである。

★メタファー機能とは、実は「思考スキル」と呼ばれるものである。スキルと表現すると、なぜか受験テクニックに直結してしまうが、思考スキルは実は修辞学である。

★表現とは、表現者がいいたいことを伝達する機能を有しているが、それは論理的思考のときに限られる。そういうドメインやフィールドも必要である。しかし、表現は思いもよらないリアリティを創造/想像する技術でもある。

★direct表現とindirect表現のカップリングが常に生まれるのが表現というものであろう。ただ、事実に力点をおいたとき、direct表現が前面に出てくる。そして、ファンタジーを思い描こうとしたら、伝達以上の内容を生成するindirect表現になる。かくして表現とはルビンの壺である。

★では、その創造性を生み出す修辞学としての思考スキルとは何か?それは、隠喩とか提喩とか換喩とか呼ばれている「置換」スキルであり、パラドクスや矛盾、差異と呼ばれる「比較対照」スキルであり、具体と抽象という「挿入」スキルや「削除」スキルであり、順番を決める「優先順位」スキルなのである。特に、「置換」スキルはユークリッド幾何という硬い数学を非ユークリッドやトポロジーという空間変容に誘う最強のそして当たり前すぎて気づきにくいスキルなのである。

★こういうと、そんなもんですかと言われそうだ。だいたいいつもそう言われる。基本原理はいつもシンプルである。リニアモーターカーの基礎原理は電磁石のプラスとマイナスの差異によって動くのである。真理はいつもシンプルである。だから、すべての子供たちが創造的才能者になる学びはデザインできるのである。それには、幼児期から修辞学的思考スキルの気づきを途絶えさせないことである。

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2019年5月29日 (水)

池田靖章校長と立ち話

★昨日夕刻、偶然にも京都で、香里ヌヴェール学院中学校・高等学校校長池田靖章先生にお会いした。15分くらいの立ち話だったが、池田校長がビジョンに基づいて、教師の才能開発と組織開発に乗り出していることが明快に伝わってきた。

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★その日は、香里ヌベール学院のグループ校の小学校で学校説明会を行うために来ていたということだ。あとからそのグループ校の知人から聞くところによると、コースの丁寧な話はいうまでもないけれど、思春期を乗り越える時にどのように教師はサポートし、子供は成長していくかという体制の話と子どもの内面に迫る話で、新鮮だったという。

★中高時代は、生徒にとって疾風怒濤の青春期である。自分に悩み、友情に悩み、学力に悩み、多様な人間関係に悩み、笑顔の奥にフリーズした自分の表情をなんとか解氷しようとするそんな真っ只中にいる。しかし、それはあらゆる世界の痛みを自分ごとにし、そこから自分の殻をやぶり、仲間と共に、導師と共に、世界問題にぶつかっていく体力、知力、感性を身につけ、技術を鍛えている時を過ごしていることを示している。だからこそ、教師は、その殻の破れる音に耳を澄ましている。教師は殻を破る手伝いをするのではなく、生徒自身が自分で殻を破る環境を丁寧に創っていくのだ。池田校長はそう考えているだろう。

★今年6月、池田校長は、SGDsに関連するワークブックを発刊するが、同書は、そういう悩みを自分ごとに転化し、世界問題から自分を捉え直す大きな跳躍台になる。ヌヴェール科という探究活動で、先生方も使っていくが、このワークブックを編集する池田校長のマインドやビジョンに生徒が触れられるかどうかが重要。

★池田校長の廊下での生徒や教師との立ち話マインドセットは、その重要性に気づく有効な瞬間の永遠の場だろう。世界の痛みを身をもって知っている校長。これからの教育のリーダーシップは、そこから出発できる教師の存在が肝だろう。「21世紀」という時代は、学力という客観的な知識の習得に煩わされる時代から内面や思考という存在そのものを共に受け入れ開発していく時代への転換期ということなのかもしれない。

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2019年5月20日 (月)

2019年東京私立中学合同相談会 in 国際フォーラム(6)多元世界

★その学校に行くとそこには多元的世界が広がっているという学校がある。八雲学園、工学院、順天という学校がそうだ。多元的世界は、2つの側面がある。それは、多元的経験世界と多元的認知世界である。そしてこの2つの世界の比率のバランスは学校によって違う。

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★八雲学園は、強烈な多元的経験世界を重視する。だからこそ、極限の経験を教育に取り入れているラウンドスクエアという世界のエスタブリッシュスクールの仲間として迎え入れられた。ラウンドスクエアを創るのに貢献したクルト・ハーンは、あのIB(国際バカロレア)構築にも尽力しているが、氏の経験主義が込められたプログラムはCASであろう。

★クルト・ハーン自身IB1号店ともいうべきアトランティック・カレッジを創設しているが、そこでのサービス(奉仕)活動の1つに、海難救助がある。岸壁にたたずむ古城をキャンパスにしているから、嵐の時に出動しやすい環境にあるからだろう。

★それにしても、自らの命をかけてまでの奉仕経験こそが教育だというのは、極端ではないかと私たちは思うかもしれない。しかし、クルト・ハーン自身がナチスによって投獄されても、自らの教育プログラムを軍事育成用に使わせなかったのは、命がけの教育を行っていたということだろう。

★私立学校の教育は命がけという話は、しかし、私学の教員は身に染みて理解できることだろう。八雲学園の教師は、そのことを真に一番理解している。先生方が命をはって生徒を常に見守っている。それでなければ、世界を駆け巡るあれだけの経験を学ぶことは生徒はできないだろう。

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★工学院も、実に多元的経験世界に満ちているが、同時に「思考コード」という独自の知性観もデザインし、日常の学園生活や授業そのものに浸透させている。したがって、多元的経験世界と多元的認知世界のバランスはどちらかというと多元的認知世界に偏るが、今工学院もラウンドスクエア加盟に向けての準備をしている。やがて、2つの世界のバランスは1対1になるだろう。

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★順天も、SGH指定校というコトもあり、多元的経験世界が広がっている。そして、その経験を広げ深めていく生徒の能力を、コンピテンシーに着目してルーブリックとして創っている。したがって、よりいっそう多元的経験世界が豊かになっているが、工学院のような思考コードを作成するプロジェクトもたちあがり、2つの世界の平衡が創り出せるように動いている。

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