文化・芸術

2021年1月 4日 (月)

「教育とは生き方そのもの」へシフト(01)グレートリカバリーの意味

★昨日、NHKの「ズームバック×オチアイ」を見ました。タイトルは<新春SP 「2021 大回復(グレートリカバリー)への道」>でした。「グレートリセット」ではなく、「グレートリカバリー」にしたのが、NHKらしいし、落合陽一さんらしいなあと、どんな展開になるのか興味があったからです。

2021vision

★落合さんは、リチャード・フロリダの「クリエイティブ・クラス」という言葉を、「働き方5.0」でキーワードとして使っているので、「グレート・リセット」を書いたフロリダの書にちなんで、「グレート・リカバリー」と名付けたのかと思っていたら、それもあったでしょうが、それだけではなく、今年のダボス会議のテーマ「ザ・グレート・リセット」と重なるのを避けたかったのでしょうね。

★というのも、ダボス会議の背景には、GAFAがいるので、番組の中でも語っていますが、GAFAという帝国には少し距離を置かなくてはということのようです。落合さん自身はデジタルという新しい自然と旧来の物質的自然をどう融和させるかを「働き方5.0」の中で追究していますし、デジタルアーティスでもあるわけで、テクノロジーを否定することはありません。

★それは友情出演してきたマルクス・ガブリエルさんも同様です。二人とも今ある世界が存在するのは、もともとあるのではなく、創っているからあるのであって、歴史的に多くの人々の協働物語作品だと。それこそが存在であって、はじめから存在しているのではないのだと。これは、デューイともシンクロします。

★だから、有ると思って、油断していると、ミヒャエルエンデの「果てしない物語」のように、その世界ファンタ―ジェンは虚無に飲み込まれるよと。そうならないように、世界を楽観的に創っていこうよというのです。デストピアのシナリオではなくユートピアのシナリオを描こうよと。

★まさにプロジェクト学習ですね。

★私がPBLを学校の先生方と行っているのは、まさにそういう意味です。教育は大学進学のための準備期間ではありません。生き方そのものの学びであって、学びは生き方そのものです。どう生きるかそれを学ぶには、PBLだよねとデューイは語り続けたのです。

★教育と市民社会が、民主主義を創り続ける2極であり、それは引き合っているわけです。そういうわけで、シカゴにラボラトリースクールをつくったのです。

★この学校は、今年創立125周年を迎えます。しかし、それがデューイが求めたものであるかどうかはわかりません。デューイが行っていたのは9年です。資金調達がたいへんだったということです。デューイは「学校と社会」の印税を資金に当てていたらしいですね。その当時にPBLなんて受け入れられなかったからでしょう。

★デューイが「民主主義と教育」の中で、自分の理論とはなぜ違うのかと論理的にヘルバルト主義を批判しているのですが、この構図は21世紀型教育と20世紀型教育の違いに重なるのです。パンデミックで、21世紀型教育はポジショニングを得ましたが、デューイの時代は、パンデミックも世界大戦もあった時代です。

★国家のために戦う人材を生産しなければならにときに、そんな悠長なことは言ってられないという古いパラダイムがあったのだと思います。

★しかし、今もパンデミックはまだまだ猛威をふるっているし、油断すれば世界戦争も起こりかねない緊張状態を持続しているわけです。ただ、、デューイの時代と違うのは、化石燃料の覇権争いから新しいエネルギー創出の時代に変わってきたということでしょう。

★インターネットやコンピュータの発達が、遺伝子工学や生命科学を爆発的に発展させ、エネルギー再生の新しい道がどんどん生まれています。

★しかし、パンデミック以前は、既存の経済システムが、それを歓迎してこなかったのです。既得権益が、大量消費、大量生産、大量移動、大量情報の歯車の回転を止めようとしなかったのです。

★ところが、パンデミックは、この歯車を世界同時的に止めてしまいました。それでも、人間は生きなければならないのです。SDGsはパンデミック以前は、大量消費・大量生産・大量移動・大量情報を止めるのではなく、それらが引き起こす負の部分を抑制する方向で動いていました。

★しかし、今回のパンデミックで、大量消費・大量生産・大量移動・大量情報そのものを見直す、つまりグレート・リセットし、グレート・リカバリーしよというわけです。

★まだまだ、エネルギー問題は好循環になっていません。それゆえ、経済とニューノーマルな生き方はジレンマを解消できていません。

★にもかかわらず、ここを突破するには、私たちは新しい経験と新しい自然に対する考え方を生みだす必要があります。デューイは「経験と自然」という書で、すでにその方向性を語っています。なるほど、ローティが、デューイを読み直して、新しいプラグマティズムの道を開いたはずです。

★しかしながら、それは哲学の牙城の中での話で、社会実装に開かれていたわけではないのです。

★それがマルクス・ガブリエルさんと落合陽一さんが出現して、そこを実装段階にするわけですね。

★私たちは、それを教育で行うとしています。シカゴのラボラトリー・スクールは、デューイをどのように継承しているかはわかりませんが、「教育は人生の準備ではなく、人生そのものだ」というデューイの言葉を大切にしています。それゆえ、人間は常にそして死に至るまで学び続けるのですね。

★教育も学びも人生そのものです。だとしたら、教育や学びの機会は学校だけのものではありません。道端の石ころからでも学べるとは詩人の言葉でしょうが、人生は、自らの才能を自ら見つけ開いていくことです。それはいまここにいる瞬間も同じです。ですから、あらゆる時間あらゆる空間が学びの過程なのです。ただ、自分のことは自分でわからないという哲学命題もあります。日々そこには黄金律があるわけです。つまり、あなたのしてほしいことを他者にもしなさいという対話という存在者がいるわけです。

★デューイがこの対話をinteractionではなくtransactionと語ったのは慧眼だったということですね。

★そして、人生そのものの教育や学びであるには、ヘルバルト主義はうまくいかないのです。PBLがキーになるわけです。ヘルバルト主義は近代国家主義的教育です。PBLを提唱し実践したデューイは、市民社会を念頭に置いていたでしょう。グローバル市民とはそこに位置づけられているわけです。

★日本の私立学校が、明治期にヘルバルト主義の官学と対峙しデューイ的なPBLを受け入れようとしていたのには重要なお意味があったのですね。戦後再び、ヘルバルト主義的に陥る私学もありましたが、2021年は、再びにデューイに立ち還るという動きが起きているのでしょう。マルクス・ガブリエルさんと落合陽一さんは、それが文化と倫理の復権という新啓蒙主義だと、番組の中で語っていました。

★大きな方向性が生まれました。同時に大事なのはそれぞれが自由に学ぶことです。人生は誰かに支配されるわけにはいかないのです。しかし、自分では自分のことはわからにのです。協働するしか誠の道はなさそうです。それには文化と倫理が確かに必要です。もちろん、自由を束縛するのではなく、自由を生み出す世界を創るために。

★そうそう、そして、脳科学のパラダイムが、同時に変わります。ニューロンだけが脳の働きを支えているのではなく、ニューロンとニューロンの間にある部分が大量に発見されたのです。従来の顕微鏡で覗くとき、そこにある液体が流出して、その存在を確認できなかったというのです。

★毛内拡さんの「脳を司る脳」は必読です。デューイは19世紀後半から20世紀前半まで92歳まで活躍していましたから、パンデミックも世界大戦も経験しています。それを民主主義と教育でなんとか問題解決しようというのがプロジェクトでした。ノイマンコンピュータも験しているし、そもそもライプニッツが計算機の土台を創っていますから、デジタルな自然も予感していた可能性があります。とはいえ、ノートパソコンを見たわけではありませんから、落合陽一さんの考える新しい自然概念までは到達していなかったでしょう。

★ですが、自然概念を広げる論を展開はしていたのです。

★ヘーゲルを超えようとしていたのは、まさにマルクス・ガブリエルさんと同じ発想です。

★しかし、さすがにIT発達に伴う脳科学の躍進までは捉えていなかったでしょう。

★デューイに還るも、さらに新しいプロジェクトが立ち上がるという意味が教育におけるグレート・リカバリーの意味だと思います。リカバリーとは、意味を創ること、世界を創ること。それがファンタ―ジェンを持続可能にするでしょう。

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