心と体

2022年10月28日 (金)

聖パウロ学園 エンカレ(通信制)の倫理の授業 自分を知る環境をつくる もう一つの探究。

★聖パウロ学園には全日制と通信制の両方の学校があります。通信制のほうはエンカレッジ(以降「エンカレ」)と呼ばれています。エンカレに集う生徒は、自分の才能を内面の奥深くに秘めていて、自分でもその才能に気づかないという場合もあります。中学の時の複合的な人間関係や環境などの要因によって、そうなってしまった可能性が高いわけです。ですから、その自分の才能に気づくところからエンカレの教育は始まります。

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(エンカレの倫理の授業シーン)

★自分の才能に気づけば、その才能を生かそうと考え、自分を再度見つめ直し、ようやく自分が困っていることが了解できます。様々な複雑な外部のつながりに悩んでいたわけですが、自分が困っていることや悩んでいることがそこではなかったと気づく瞬間がやってきます。これは、エンカレの生徒に限らず、全日制の生徒もそうだし、パウロに限らず、それに高校生に限らず、人間だれしもそういう経験をするでしょう。

★ただ、エンカレの生徒は、あまりに奥に自分のタラントをしまっておきますから、それを開示するには、少しサポートが必要です。

★そこで、エンカレの教師は、フッサールの自分を捉える現象学的還元手法を高校生と高校生、高校生と教師などの相互理解に適合するように研究と実践をしています。日本大学文理学部の教授、准教授、大学院生、学生と連携して、研究会を開いたり、日大からは大学院生や学生がインターンシップに訪れます。もちろん、単位になるものです。また、研究会では、エンカレの教員がグループワークの時にファシリテーターの役割も果たします。

★このようなバックボーンを持っている教師陣が、午前中は、園芸や農業という体験、体育の時間ではアルティメットなど、言語の前に身体脳神経系全体で協力し合う体験を設定しています。私たちは、いつの間にか、言葉でコミュニケーションをとるものだと思いこんでいます。ですから、言語能力の差が、教育格差になることも多いのです。知られざる優勝劣敗の根源がここにあります。

★人間は生まれたときに、いきなり言葉は話しません。身体で、人間関係とか空間や時間の認識を身に付けて、やがて、それを言語に転換します。しかし、そのとき、身体的な体感を言葉のバックグラウンドから忘却し、自分から離れた客観的道具にしてしまうケースが多いのです。そうなると、道具は、常に両義性です。幸せをつかむサポート道具にもなるし、幸せを阻害する凶器にもなります。

★後者の場合、当然人間関係はぐちゃぐちゃになるし、自分を守るために奥に隠れてしまう時もあるでしょう。

★エンカレの教員は、それゆえ、言語を使うことを最初から目的にしないで、無理をせず、いったん括弧に入れます。その状態で、身体脳神経系全体を「自然と人間関係の関係性」の中に浸すわけです。

★そして、すぐにグループワークではなく、自己を見つめる考察を、倫理などの授業で行います。

★幸せって何だろう?ではなく、幸せを捉える「自分の眼鏡」はどんなものかを振り返るわけです。

★基礎知識として、幸せの多様な説を、身近な例でレクチャーし、生徒が信頼している教師の事例を分析する思考実験を行っていきます。教師と生徒の関係の中で、生徒自身、自分が見えてきます。

★自分がいかなるものかは、結局は信頼できる相手とのかかわりの中で見えてくるという体験授業がエンカレの倫理です。探究とは、その出発点である、我と汝の関係性を身をもって知ることであり、その関係性を捉える自分の存在としての眼鏡をまずは意識することでしょう。そして、はじめて、その自分がその関係性の中でどう生きるかがわかってきます。

★そして、その関係性の輪が広がったり、それを阻害するネガティブな関係性が現われて来た時、それが予測不能なわけですが、そこで自分がどう生きるのか判断するときがやってくるでしょう。汝ではない、ネガティブな関係の向こうにいる知らない人が、勝手に捏造した基準やルールという足かせをかけられないように、人生を選択したり、その足かせを粉砕する新しい関係性をつくったりできる、自分の信念、価値観、才能などの「存在としての眼鏡」をまずは探究するというもう一つの「総合的な探究の時間」。

★自己責任論ではなんともならない生徒、いや本当は多くの人びとがそうです。それをなんとかする教育は、未来の教育ですが、小さなエンカレの授業の中にもそのヒントはあるかもしれません。日々1人ひとり違う生徒の才能というかけがえのない存在をあるいは信念を共に探す教師。教師と生徒というより、人間と人間の関係性をいかにつくるか。それはそう簡単ではありません。にもかかわらず、それに挑戦し続ける日々を送っている先生方に頭が下がります。

★エンカレの教員にまだまだ学ばねばならないと思う今日この頃です。

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2021年11月14日 (日)

由佐美加子さん 新著<ザ・メンタルモデル ワークブック: 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフ>出版

★由佐美加子さん。U理論や学習する組織に親和性を共にしている友人―佐野先生や金井先生、川上さんーを通して、前々から噂は聞いていましたし、一度Zoomでお会いしました。それから、ドローダウンプロジェクトに誘われて、私は本を購入するくらいしか協力できていないのですが、その本を介して、自分なりに生徒と対話もしています。また、その生徒との対話が背中を押してくれて、パウロの森と結びつけたプログラムができないかどうか、勤務校のPBLを得意とする数学科教師やフッサール的省察を実践している体育科教師と対話も始めてもいます。まだまだ一粒のカラシダネ段階ですが(汗)。

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★その由佐さんが、新著<ザ・メンタルモデル ワークブック: 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト  2021/11/12 由佐 美加子 (著), 中村 伸也 (著)>を出版しました。まだ予約受け付け中で、手にしていませんが、ド近眼がゆえに、kindle版がでたら、ポチります。その時を待つまで、既刊の<ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジ 2019/8/31 由佐美加子 (著), 天外伺朗 (著)>をポチりました。

★高校生が内面の景色を立ち上げたり、世界観レンズを磨いたり、内面の魂をどうやって生成していくのか、どうやって隣に座って対話していくのか試行錯誤・探索の日々ですから、同書の4つのメンタルモデルは響きました。

A 価値なしモデル「私には価値がない」
B 愛なしモデル「私は愛されない」
C ひとりぼっちモデル「私は所詮ひとりぼっちだ」
D 欠陥欠損モデル「私には何かが決定的に欠けている」 

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★このメンタルモデルという自己と向き合う対話は、実は20世紀型教育では排除されてきた実践です。それがゆえに21世紀型教育で、そのような魂の対話を取り戻そうとして、学力定着のためのPBLではなく、魂の連帯の息吹を生み出すPBLを仲間と提唱し、共感し、実践しているわけですが、学力定着という客観的な知識を覚えればよいーそしてそれは同時に主観的なものや創造的なものは評価できないんだから、排除すると置き換えることができますーという近代の影の勢力との攻防にふと疲れている自分を見出す時があります。

★しかし、こちらがつかれている時も、そのとき排除したってなくなるわけではない生徒たちの主観がサイバー世界でその光と影を増幅しているのです。起業家精神旺盛な主観が広がっている場合もあるし、まさに4つのメンタルモデルがそれぞれ自己統合しないで、分離されたまま、さまよい閉塞している様子も広がっています。

★どうやって、魂の連帯を取り戻せるのか。同僚の教師と日々取り組んでいるわけです。ということに同書は改めて気づかせてくれました。明日からまた手を広げて立ち臨んでいこうと勇気をもらったような気がします。

★朝から、妻と私たちの家族のメンタルモデルはどれだろうと盛り上がりもしました。妻とインドネシアで生活している娘もその夫もアーティストです。夫の方はバイオアーティストで、そのチームはGoogle協賛のスプリントで優勝して、今度MITでプレゼンらしい。もっともZoomですが。まさにドローダウンを私より先に実践しています。

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★芸術音痴の私だけが、違う世界にいるんですが、妻は子供のためのお絵描き教室を母校の美大生と開催しながら、同時に人類誕生以前の文化人類学的考察とかいうテーマでリサーチし、テンペラ画や染色的絵画を描いています。

★娘は、ジェンダー関連のアーティストたちとリサーチアートをやっています。息子が生まれて、仕事と子育ての両立に悪戦苦闘して妻とラインで毎日のように連絡をとりあっています。妻も私(山の森の学校なので単身赴任でたまにしかいっしょにいられませんが)も画面越しに孫と会えるのは喜びです。テクノロジー万歳って感じです。

★ともあれ、芸術とは無縁の私ですが、芸術はそれぞれ何か大きな存在との対話ですから、教育も何かつながりはあるでしょう。いずれにしても、そんな大きな存在と自分たちの小さな存在のギャップをどう弁証法的に=対話的に近づけながら、その大きな存在の本質が何か明らかにしたいというメンタルモデルはたしかに、あるなあと同書を読んで、妻と共感しました。つまり、私たちのメンタルモデルは、欠陥欠損モデルなのかもしれないと。

★そして、まさかメンタルモデルは遺伝するわけではないよねと。でも、親和性と遺伝はどこか関連するかもしれないと。

★いつもは、絵画や音楽、アートワークを介しての対話が多いのですが、今朝は久々本を介して対話。読書のすばらしさを再発見しました。ありがとうございました。コモングッドに向けて明日からまた歩んで行けそうです。

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2020年4月14日 (火)

ポスト・コロナショック時代がもたらすコト(5)オンライン学習のシナリオは、モリスの系譜でいくか?ベラミーの系譜でいくか?新しい道でいくか?

★昨日から、首都圏や関西圏の各学校でオンライン学習やWebを活用した授業が本格的に動いています。企業もテレワークが本格化しています。もちろん、スターウォ―ズやスタートレックのような世界はまだやってきていないですから、100%そうなっているわけではなし、いやむしろ本格的なオンライン学習やテレワークは10%くらいが現状ではないでしょうか。

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★むしろ、エヴァンゲリオンの描く、昭和な気分の生活世界になぜか超未来型物語が併存しているという感覚の方がしっくりくるかもしれません。というか、私たちの社会はすでにGAFAによって超未来的な世界を実現しはじめている一方で、牧歌的な田園風景に憧れ、ツーリズムはたいへんな観光業になっています。がしかし、今やその両方が新型コロナウィルスによって危機にさらされています。

★医療崩壊だけではなく、このままいけば治安崩壊もあるし、そもそも電力崩壊もありえます。電力をコントロールしている最後の砦は今のところ人間です。しかも高度な専門知識が必要なので、たくさんいるわけではないのです。医療従事者と同じくらい重要な専門家集団です。

★しかし、新型コロナウイルスの威力はすさまじいわけです。電力崩壊は、医療崩壊も治安崩壊も経済崩壊も生活崩壊ももたらしてしまいます。それはすでに、私たちは多くの過酷な被災で経験しています。

★この凄まじい世界リスクに今多くの人が現場で壮絶な力を尽くしているわけです。

★そして、一般市民である私たちは、この情況を目の前にして何をすればよいのか途方に暮れるばかりです。

★最前線で高度な知恵を使い、体力の限界まで尽くしている人々に感謝と祈りを捧げながら、自分たちでもできることをやろうと。それは、不要不急の外出はしない、手洗い、うがい、ノー3密、マスク装着、健康管理、メンタルケアをしていくということだと言われています。

★何気ない行為のように思いますが、これができるようになるまで、多くの時間がかかったし、権利の闘争が積み重ねられてきたのを忘れてはいけませんね。膨大な歴史がこの生活世界形成の背景に横たわっているわけです。

★そして、いつもと違い思索の時間が増えるわけですから、どんな社会を自分は創っていくのか1人ひとり考える機会を与えられたということでもあります。

★世界リスクは、今はじめて起きているのではなくて、産業革命、宗教革命、民主主義革命、大航海技術革新が生み出した近代化の歴史は、リスクとの攻防史でもあったということは今や多くの識者が語っています。ですから、このリスクを回避する社会構想のモデルは、19世紀末に、すでにモリスとベラミーのユートピアにあると言われるゆえんです。

★GAFAを中心とするAI社会構想は、ある側面はベラミーの描いたユートピアという名のデストピアなのかもしれません。

★モリスの描いた田園芸術生活世界ユートピアは、ベラミー路線の陰に隠れて忘れ去られているように見えますが、私たちが田園都市線に乗る時、実はモリスのアイデアに乗っているのです。

★ベルリンに行ってバウハウスのミュージアムを訪れて、感動しているとき、モリスの構想に感動してもいるのです。

★ウイーン世紀末やその当時のジャパノロジーやアール・ヌーボーも同様です。ということは、赤レンガの東京駅を見たとき感じる気持ちも同様です。

★授業の中で生徒と宮沢賢治の作品の世界を共有しているとき、それはモリスの世界でもあるのです。

★HTHがエンジニアリングから次に行かなくてはと言っているとき、そこにはモリスの世界が横たわっています。

★京都の桂離宮に訪れたとき感じる心的世界はモリスの感性に重なります。

★ファインアートからスペキュラティブデザインに移行しようというアーティストやデザイナーは、モリスの世界とかぶっています。

★そしてクリエイティブシティやスマートシティといったとき、ベラミーのユートピアだけではなくモリスのユートピアも交錯します。

★戦後教育基本法や46答申に影響を与えたときの森戸辰男の精神は、極めてモリス的でした。もちろん、森戸のヤヌスの側面はあります。ベラミー的な教育行政も行っていて、批判も浴びています。実は、森戸のその輻輳路線は大学入試改革の発想にも接続してしまっています。

★芥川龍之介もこの両者のアイデアの狭間で苦悩しました。

★夏目漱石は、その苦悩の解剖をしていって感染してしまいました。

★モリスやベラミーの本を読むことはもちろんいいですが、私たちは、生活の中で、すでに両者の考え方の狭間で生きています。知識としてのモリスやベラミーは、興味と関心があれば歩んでみるのは大賛成ですが、一般には、自分の生活が両者のアイデアの間を往復しているとは気づいていません。そこにみんなでまずは気づ生きたいなあと思っています。

★この不要不急の外出をしないときに、両者のアイデアの間のどのへんを歩いたらよいのか、あるいは、全く新しい道があるのか想いを馳せる機会が訪れたということでしょう。

★そして、それを考えるトリガーになるのは、オンライン学習とテレワークです。ベラミー的な合理的マシーン的ユートピアとモリス的なの農村田園的なマインドフルなユートピアが交錯する議論が現場で実は噴出しているのです。まるで、スターウォーズの世界ですね。

★私もオンライン学習やテレワークに身を置きながら、行方を共に考えていきたいと思います。

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