「探究」は誰のものか?探究は自分の生き方の価値を発見しアップデートしていくもので、学校だけで行うものではないのに、コモディティ化してしまうのか?
★7月3日に「教育課程部会 生活、総合的な学習・探究の時間ワーキンググループ(第8回)」が開催され、次期学習指導要領の「探究」に対する思いが強いことは、その膨大な資料から了解できます。でも、誰がこの膨大な資料を読み解くのかと少し戸惑います。
★もしかして、学者や探究の達人、探究を行う塾などの教育関係者が読み解き、それに子供たちや保護者は従うというのでしょうか。問いの立て方や学びのプロセス、成果のアウトプットのし方、評価の仕方まで、きめ細かく議論されています。それ自体はいいのですが、その話は、全部子供たち一人一人が見出していくものでり、汎用商品を買うというものではないでしょう。
★緻密な資料やデータを読み込んでいるうちに、探究の楽しさ、やりたいからやる、作りたいから作るという自分にとっての価値の根源を見つけることの楽しさを見失っていくような気もします。
★もちろん、文科省の資料の中にも「価値」については書いてあるのですが、どうも市場価値に落ち着いてしまうような感じです。もちろん、市場で価値が支持されなければ、生きていくのにはたいへんなのですが。
★何か、自分の価値のプrミアム感やセルフブランディングのイメージからは遠いのです。
★みなが同じような価値を公平にもつ。つまりコモディティ化してしまう。
★最小限の必須知識とそれをいろいろな未知のものに置き換えて、転移して広げていく。その転移の方向性や広がりは、子ども一人ひとりによって違うから、独自の価値がそこに生まれるのです。
★ところが、この言い換えたり置き換えたりする認知は「低次」というカテゴリーに入れられているのです。自分の未来を、今の先入観に従ってしまうのではなく、自分で書き換えるコト、つまりリフレーミングは高次の認知能力だと思うのです。
★しかし、これを低次に位置づけてしまうことによって、自分の価値を見つけていく機能を阻害して染みます。
★置き換えたり、書き換えることは、方程式を作る思考作業です。決して低次ではないのです。文理融合の知は、この転移機能を自在に使えることなのになあと、どこかもったいないと感じた次第です。
★いずれにしても、独自のシンプルかつ強力な自分の価値を追求できる学びがある学校を探しましょう。知的に誠実な学校を。そして、学校で完結するのではなく、そこは契機であって、そこから羽ばたき、世界で自分の道を追求していける最高の学び方を獲得していけるチャンスをサポートしてくれる教師陣のいる学校を。
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