★今や探究は大いに流行っています。そうなってくるとなんちゃって探究ではなくて、本物の探究をどこがやっているだとか、俺がやっているだとか、探究は形骸化している、本質的な探究を回復しようとか、大いに世の中は盛り上がるのです。この感覚は教師だけではなく、生徒もそうです。探究コンサルタントを生業としている方々などは大いにポジショントークをとるのに躍起となっています。こうなると、それは広く浅く浸透して、トレンドは飽きられて終わりに近づいている兆しです。そして終わりは始まりです。

★多くの人が、探究の系譜を20世紀初頭のヘルバルト主義とデューイを中心とする進歩主義教育の葛藤に求めています。それが21世紀初頭の今にも同じような議論の枠組で語られているのですから、終わりはやはり始まりでしょう。
★ヘルバルトの教授法は、近代国家ができるときに、知識の体系を整理し、それを将来の近代国家を背負う(エリートと税金を徴収される側ですが)国民を教育をすることが使命だったでしょう。近代国家のビューロクラシー的な側面ですね。
★それに対しデューイは、民主主義的近代国家を作る市民の生活世界における教育を想定したのでしょう。この両者の葛藤は、ヘルバルト主義の中にも教師のためのPBLを生み出したし、デューイの仲間たちは生徒自身によるPBLを生み出しました。
★この学びのDNAは、今も続いています。知識重視のワンウェイ授業は今も健在で、その授業の組み立ての指導案作りという文書主義はビューロクラシーの側面をまだまだ象徴しているでしょう。
★一方で、正解が1つではない大きな問いを教師が投げかけてディスカッションをしていく、教師がプログラムをデザインして行うPBLも健在です。コーチング手法かもしれません。今、探究といったとき、このタイプのPBLが多く、教師は生徒に手放したいと悩んでいます。
★そして、その悩みを乗り越えて、教師はファシリテーターになって、生徒自身による自由闊達なPBLを土台にした探究も行われるようになりました。あたかもこれが探究の究極だというような感じです。
★しかし、20世紀初頭の3つのタイプの教育は、その後、システム思考、デザイン思考、多重知能、SEL、MITメディアラボの3Rから3Xへというデジタル×コラボレーションの学びなどなど、多くの方法論が活用され、わざわざその3つを差別化する必要がなくなっているというのが、本当のところでしょう。
★つまり、20世紀初頭のアイデアは、終わり、21世紀初頭は、そのアイデアの視点は内包しつつも視点そのものが変容し、新しい学びがどんどん生まれているのです。それがよいかどうかは別です。また浅い深いも、それはそう語っている方が、明確な基準軸を持っていないため、批判(というより非難ですね)してしまうのです。自分のは、他に比べて深いというポジショントークです。これが教育格差を生む実は原点なのですが。。。
★教育環境の状況によって、子供の発達情況によって、同じ方法をとったとしても、深さは違っていいのです。かりにそのとき浅いと思っても、そのあと深くなればよいのです。
★かように、20世紀初頭の探究の系譜は終わり、21世紀初頭の探究は新たに始まるのです。それを決定づけるのが、野生の思考を生成AIパートナーによって取り入れつつというか、いろいろな方法論を現場ではフュージョンしていまう方向になるのです。
★それぞれの方法論にこだわるのは、各学者が研究としていやることで、中高現場ではフュージョンして、新たなものをどんどん生んでいく。探究が形骸化したとか、倫理観の欠如だとかいう議論は、20世紀初頭の論争です。21世紀初頭の現在は、多角的複眼思考です。いろいろな方法論を融合しながら生きていく資質能力とメタ視点を生徒が自ら自分軸あるいは核にできるかということです。しかも、その軸や核はアップデートできます。
★その成果のエビデンスは何かと問う方は、研究者的観点からものを言っています。それはそれでよいのだけれど、生きるというのは学問ではないのです。学問は生きることの意味の後付です。大事なことですが、後付ばかりを教育現場に押し付けるのは推論の梯子になってしまいます。
★その格好の例が偏差値ですね。偏差値的裏付けというエビデンスがどのようなネガティブな状況を生み出したか火を見るより明らかです。
★基本、心理学的エビデンスは、偏差値と同じです。偏差値は、固定された問いに対する反応率という確率です。多次元で算出できれば、リアリティはでてきますが、それもまた後付です。
★それを参考に自らまた仲間とリフレクションしながら、未だない世界を生み出していくことが生きる躍動感。これっていいですよね。理屈ではない。それを過去のデータが示す枠組みの中で自由に生きろといわれても、躍動させられてはいるけれど、躍動感ではないのではないかと。
★というようなことも、本当のところはわかりません。ともあれ、現場では、個別最適化というまでもなく、すでにヴィゴツキーが語っている最近接発達領域という子供によって1人ひとり違う才能の発火点を見つけるために、多様な方法論を活用し、融合しながら無限の最近接発達領域を見定めようとしているのです。
★そこにセレンディピティや躍動感が生まれては消え、そして再生していく過程が凄まじいのでしょう。探究であれPBLであれ、ともあれ、対話型人間関係や組織が生まれることが本意です。その生まれ方は、多様なのです。
★その信頼性や正当性、妥当性はなんなのだと問うのはよいことですが、その測定の仕方を固定化すると再び推論の梯子になります。
★でも、測定しはじめるとデータ蓄積によって、固定化してしまいます。形骸化や倫理観の欠如は、機械的システムによって生まれるパラドクスであることは古今東西世の常なのです。
★そこを言い合っているだけでは、先に進めませんが、それは、その限界点に早くも到達したということを示唆しているのでしょう。あとはそこを超えるだけですね。もちろん、超えた後は、また限界点がやってきます。終わりは常に始まりというわけでしょう。
★そうそう、個人的に残念のは、「探究」というのが学習指導要領の言説で、世界で通用する「探究」ではないのです。「探究」という言説を使い続けている限り、世界の限界は学習指導要領になってしまうんです。大げさかもしれませんが。もちろん、ヴィトゲンシュタインの語る「探究」も学習指導要領で言っている探究とは共通点もあるでしょうが違います。
★教育言説という探究ではない探究も大切にしたいところです。そもそも「探究教材」というテキストが固定化され販売されるよういになっているのは、もはや探究の終わりを象徴しています。しかし、それはまた、探究教材を超えるところに、学習指導要領の探究から解放される地平が見てきます。やはり終わりは始まりということでしょう。
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