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2024年10月19日 (土)

私立学校の校長 後世への最大遺物をのこす私学人 勇ましい高尚なる生涯

★昨日吉野校長のお話をお聞きし、また先生の生き様を私の知る限り振り返り、やはり哲人校長だと思いました。私立学校の校長とは本当にそういう方が多いですね。内村鑑三が、「後世への最大遺物」で、近代における国家主義の時代に、個人の重要性を説いているのですが、まさに国家と市民社会の融合点を志向し生き抜く個の育成は私立学校の校長のアンビションそのものですね。

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★麻布の前校長氷上先生と何度か対話した時、私立学校の第一世代ともいうべき私学人は 江原素六、新島襄、福沢諭吉だと。その第二世代はたくさんいるけれども、内村鑑三と新渡戸稲造にはしっかり学んでおいた方がよいと≪私学の系譜≫をたどりなさいとご教示いただきました。

★たしかに、戦後教育基本法を成立させるときに大きな働きをしたのは、その座長である東大総長南原繁をはじめ、委員の先生方は、内村鑑三と新渡戸稲造の薫陶を受けていた方が多かったのです。

★氷上先生とお会いして対話をしたのは、その教育基本法が改正される時で、だからこそ、その私学の第二世代の思想をちゃんと学ぼうということだったのでしょう。そのとき、私立中高協会側でも、教育基本法の改正の中に、文科省や教育委員会が私学を指導できるというような条文を入れようとしたことに反論をしその撤回要望をし、結果的にむしろ私立学校の教育を認めるというようなところにまで持っていく交渉をしていたのを憶えています。

★そのとき副会長だった故實吉幹夫先生も論考を描きながら論陣をはって、まさに国家に挑んでいたわけです。實吉先生は麻布出身者ですから、氷上先生同様、私学人第一世代の江原素六の継承者です。同じように實吉先生と共闘したのは、当時の鴎友学園女子の校長だった清水哲夫先生です。そして吉野先生は、清水先生と二人三脚で鴎友学園女子を大いに発展させたわけですが、鴎友学園女子の創始者は内村鑑三の薫陶をうけていたのです。

★それから、そのときからすでに協会の会長である近藤彰郎先生(八雲学園理事長校長)と日本私立中学高等学校連合会会長の吉田晋先生(富士見丘理事長校長)は福沢諭吉の継承者でもあります。

★お二人は實吉先生と共に先頭に立って立ち臨んだ私学人です。≪私学の系譜≫は脈々と続いています。

★さて、後世への最大遺物から2か所次の文章をご紹介します。私学人の気概は今も続いていることが了解できると思います。

「富というものを一つにまとめるということは一大事業です。それでわれわれの今日の実際問題は社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年問題であろうと、教育問題であろうとも、それを煎せんじつめてみれば、やはり金銭問題です。ここにいたって誰が金が不要だなぞというものがありますか。ドウゾ、キリスト信者のなかに金持が起ってもらいたいです、実業家が起ってもらいたいです。われわれの働くときに、われわれの後楯だてになりまして、われわれの心を十分にわかった人がわれわれを見継みついでくれるということは、われわれの目下の必要でございます。それで金を後世に遺そうという欲望を持っているところの青年諸君が、その方に向って、神の与えたる方法によって、われわれの子孫にたくさん金を遺してくださらんことを、私は実に祈ります。」

「金も実に一つの遺物でありますけれども、私はこれを最大遺物と名づけることはできない。事業も実に大遺物たるには相違ない、ほとんど最大遺物というてもようございますけれども、いまだこれを本当の最大遺物ということはできない。文学も先刻お話ししたとおり実に貴いものであって、わが思想を書いたものは実に後世への価値ある遺物と思いますけれども、私がこれをもって最大遺物ということはできない。最大遺物ということのできないわけは、一つは誰にも遺すことのできる遺物でないから最大遺物ということはできないのではないかと思う。そればかりでなくその結果はかならずしも害のないものではない。昨日もお話ししたとおり金は用い方によってたいへん利益がありますけれども、用い方が悪いとまたたいへん害を来きたすものである。事業におけるも同じことであります。クロムウェルの事業とか、リビングストンの事業はたいへん利益がありますかわりに、またこれには害が一緒に伴のうております。また本を書くことも同じようにそのなかに善いこともありまた悪いこともたくさんあります。われわれはそれを完全なる遺物または最大遺物と名づけることはできないと思います。
 それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。」

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