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2024年9月 6日 (金)

AI社会だからこそ精神の時代(01)桜美林と駒沢学園女子両校長の対話の美しく凄まじい信念

★本日桜美林中学で同校校長の堂本先生と駒沢学園女子の校長土屋先生の対話に立ち会いました。キリスト教と仏教の両教育の大切にしているものは、もちろん世界宗教としてスクランブルしています。その気高いそして超絶リアリスティックな精神を生徒が内なる光とすることがどんなに大事なのか、AI社会だからこそ、そこが再認識されるという両校長の快活なそれでいて凄まじい信念に脱帽でした。

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(左から、土屋校長、堂本校長)

★いずれ、6000字くらいでまとめてご報告しますが、日常の教育活動と礼拝堂や坐禅堂での活動がつながっていつつも明確に違うことに気づかされ空間の重要性にこんなに感動したのははじめてでした。

★GAFAMをはじめとするAI社会を牽引する巨大企業が、マインドフルネスや哲学コンサルタントを必要とする理由が、キリスト教と仏教の両教育が交差する対話を通して体内に響き渡ってくるのです。

★いずれにしても両校の創設者は、中国やインドで活動をしていたのです。その時代は戦争と植民地の時代です。今もウクライナやガザでそのような悲惨な状態が続いていますが、両創設者は、まさにそのような渦中の中で、子どもたちの未来のために教育活動を出動させたわけです。現在未来社会のための教育改革だとそんな精神性に関係なく浅薄な言葉を発している人々とは信頼性も正当性も妥当性もそれらの本物の度合いが違いすぎます。

★インターナショナルな闘争から境界線のなかい心の平和を軍事力でもなく経済力でもなく、教育力で勝ち得ようとしたわけです。この凄まじい信念、堂本先生は「隣人愛」と語り、土屋先生は「慈悲」と語りますが、その精神性は、あの京都大のアドバイザーになった若き俊英である哲学者マルクス・ガブリエルは、精神性を超えた精神性であると示唆するものだと気づきました。

★今の自分を超える自分、今の世界を超える世界を見出し続ける自己との対峙を礼拝堂や坐禅堂で行うのだというのです。

★もちろん、それは生徒1人ひとりの心の空間の中に礼拝堂や坐禅堂が転移するのです。ですから、どこにいてもどんな困難にあっても、その心の礼拝堂や坐禅堂が自分を照らします。そこに絶望を見るのではなく、未来への道を切り拓く自分を見るというのです。

★WHOはそのような精神を最近はスピリチュアリティと呼んでいます。ウェルビイングになるには、身体の健康、メンタルヘルス、対人関係の健康だけでは足りない。スピリチュアリティが必要だと、保健の教科書では、生きる価値といった趣旨の言葉を訳語にあてています。

★世界が気づき始めました。桜美林や駒沢学園女子のような精神を養う教育力こそ、この複合的な世界リスクを回避し、世界の平和心の平和をもたらすことなのだと。

★この教育力の本質や根源的な精神を実に軽んじてきたのが、日本の近代教育だと、教育基本法成立の時の座長南原繁(東大総長)は語りました。彼は新渡戸稲造や内村鑑三の弟子です。新渡戸稲造の弟子である河井道(恵泉の創設者)も南原繁と共に戦後の教育基本法を成立させるときのメンバーでした。

★実は駒沢学園女子の校長土屋先生の母校が恵泉です。なるほど、キリスト教と仏教の共通点と違いを堂本先生と美しくも凄まじい信念を響かせながら深い対話を行えたのはそういう理由があったのでしょう。

★AI社会だからこそ精神の時代なのだと強烈に実感しました。

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