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2024年9月18日 (水)

建学の精神ありきのバックキャストとそうでないバックキャスト

★私立学校は、建学の精神に基づき独自の先見性・先進性を発揮するとはだれも否定しない。建学の精神とその独自性は不易で、先見性・先進性は流行という感じもだいたい共有している。そしてその流行の部分はテクノロジーのアップデートをおおよそ意味する。しかし、建学の精神とはどういうシステムなのかということは、歴史のシステムを過去の知識の集積ぐらいにしかとらえられていない。ところが建学の精神は超時空性なのだ。過去にも現在にも未来においても不変であるという意味で、必然的に超時空性のシステムなのだ。

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★明治時代だろうが令和時代だろうが、その時代その時代でバックキャストして近未来を展望し、それを実現する実定法的手続きを介して開発が官民共同して行われてきた。だから、建学の精神なきバックキャストは、その時代その時代の現実社会を支えたり改善したりしてきた。そして、その実定法が超時空の中で相対化されて無秩序化すればディスとピアが常に生まれてきた。

★建学の精神とは、実定法やバックキャストが織りなす現実社会をモニタリングし、精神なき超時空化の中でカオスになるアナーキズムもモニタリングしてきた。

★しかし、最近デヴィット・グレーバーの理屈が浸透してきた。特にパンデミックによってそこにマルキストが融合してきた。人新生と資本論を論じる有識者もでてきた。それに対し、マルクス・ガブリエルが倫理的資本主義を唱えて、一定の理解者を有している。

★グレーバーやマルキストは、建学の精神のような精神を否定するから、現実社会を脱するのだが、常にそこはディストピアで、グレーバーやマルキストにとってはユートピアであるが、多くの人間にってはアンハッピーである。

★マルクス・ガブリエルは、マルクスという呼び名を冠しながらも、カール・マルクスとは真逆である。

★おそらく私立学校の建学の精神のシステムと親和性があるだろう。

★とはいえ、ある一定の社会システムをユートピアとして描いているのが私立学校の建学の精神ではない。もっと自然な人間論である。神様ではないのだから、妬みもするし、怒りもするし、不寛容な場合だってあるのだ。でも、そこを脱することができるという絶望を希望に変える精神が建学の精神のシステムなのである。

★それはリベラルアーツというシステムで、バックキャストもするからそれはコンヴィヴィアル・テクノロジーを背景にしたリベアルアーツである。

★仲間のM氏は、グレーバーの流れの学者もコンヴィヴィアルという言葉を語っているのが不思議だと。まさにその通りで、現実社会においてもコンヴィヴィアルを否定などしていないのに、その共同的な行為や想いを搾取しているという理屈になるらしい。

★現実社会はそんなに弱くはない。頑迷固陋という側面ももちろんあるが、現実社会の中で自浄作用があり、それがディストピアにはしないリスクマネジメントになる。そしてユートピアを現実社会に取り組みながら、まだ向こうにユートピアはあるとなると、そこには建学の精神と同じ精神が作用し始める。しかし、安定するとその精神は再び邪魔になる。

★現実社会は権力の暴走が作動するのが常だからである。それを抑えるのが建学の精神の持ち主たちだ。しかし、かれらは精神の足をユートピアに置きながら、頭と行いは現実社会で働くのである。この状態をよくグローカルという言葉で表しているのかもしれない。

★建学の精神なき現実社会は、未来は常に悲観的だ。絶望的だ。ディストピアにシフトするからだ。

★建学の精神ありきの現実社会は、ユートピアを志向し、現実社会を日々アップデートしていく。

★これが建学の精神の循環システムである。あるいはテクノロジーである。これを不易流行というのだろう。

 

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