学校は国民がつくる学びのコミュニティ 国家が支配する機関ではない
★東近江市長のフリースクールを巡る発言が問題になっています。自治体のリーダーの発言の背景に、無意識なのでしょうが、明治近代国家時代の国家観や学校観が残っているのでしょう。そして、おそらく今回のように発言をしたからそのことが明らかになっただけで、同じような感覚の人は、自治体リーダーに限らず、いると考えた方がよいかもしれません。
(イラストはBing作成)
★学校は公立学校であれ私立学校であれ、教育関連法規に定められているからと言って、国家に支配される機関ではありません。国民というか市民の税金をはじめボランティア協力によって成り立っているわけです。それは国家が学校を支配するためではありません。子どもの未来を守ることが国という生活圏をみんなで豊かにしてくことだからです。
★国民や市民が税金だけ払って直接かかわっていないから、学校づくりに参加していないわけではないのです。子どもの未来を考え、賛同する学びのコミュニティを選び託しているということは協力する行為です。
★ですから、公立学校のようにスタンダードが我が子に合わないことがわかれば、選択肢が、私立学校だけではなく、他のコミュニティが多様にあってよいのです。
★国や自治体は、それらのすべてのコミュティをコントロールするのではなく、憲法と教育基本法の枠をはみ出ないようにリスクマネジメントするだけです。
★コミュニティを創るには、共感的コミュニケーションを心の底から行えるように自治体リーダーはトレーニングしなくてはならないし、そもそも抑圧的コミュニケーションや同調圧力型コミュニケーションをする市長や議員を選んではいけないのです。
★国民であると同時にグローバル市民であるためには、私たち大人も共感的コミュニケーションを学ぶ必要があります。
★子供たちが不安や心配でガラスの心を震わせるような状況をつくる抑圧的な組織は共感的コミュニケーションにシフトしなくては。学力不振という言葉もそもそも抑圧的です。学力を土壌とスキルにきちんと整理し、土壌が身につければそれでまずよいわけです。たとえば微分と積分の考え方やその考え方が社会課題解決につながることがわかればもう十分な土壌が開拓されたわけです。そのうえに超難問を解けるスキルを組み立てたいという興味関心がある子供は、その道を選べばよいし、そうでない子は、自分の興味関心ある土壌を耕し、その上に優れたスキルを創っていけばよいのです。そのような学びの環境が大切です。
★学校の教育課程の見直しとは、時間割とか単元の充実とかもありますが、国民や市民がみな土壌を耕せる環境をつくればよいのです。その方法は、今や体験やワークショップ、プロジェクト活動などたくさん花開いています。
★嫌でも何でも国民の義務なんだから学校は行かせなくてはならないではなく、安心安全で好奇心が溢れるような環境を創ることが前提で初めて義務なわけです。
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