« 内田真哉先生 人生はプレイフルラーニング 幼稚園のときに生まれる希望を持続可能にする教育を実践 | トップページ | 東京私学教育研究所「所報№87別冊」 バックキャストは未来からではなく、未来を超えるところから構想するというコト »

2022年7月 2日 (土)

キリスト教の教会における霊性とキリスト教の学校における霊性の違いと共通点 マインドとスピリチュアリティの対話

★6月29日は、勤務校聖パウロ学園で創立記念ミサが行われました。6月29日は使徒パウロとペテロの祭日でもあります。勤務校の生徒、もちろん教職員もパウロの精神に気づきを得ながら学園生活をおくります。今回は、聖パウロ修道会日本管区長の澤田豊成神父様により創立記念ミサにあずかりました。神父様は本校の卒業生でもあります。イタリアで世界のカトリックの修道会の代表が集まって、会議を行って帰国した直後でしたが、すてきなミサを行っていただけました。

Img_2307

★ミサ終了後、キリスト教に興味と関心をもっている生徒が神父様のもとに集い、問答も行われていたようです。

★昔と違い、イタリアで行われた会議は、一方通行型のスピーチではなく、ディスカッション形式だということです。それぞれ違う修道会の神父が分かち合うのですから、そこには「霊性(スピリチュアリティ)」が降りてきたに違いありません。澤田神父様もどのような文脈だったか忘れましたが、「霊性」の重要性をふと口にしていました。

★PBL的なスタイルには、なるほど「霊性」が宿るのだなと何気なく思いましたが、ミサに参加する生徒の様子を見ていて、「霊性」に包まれていると感じました。またまたそんなオカルト的なと思われるかもしれません。聖体拝領の時、信者はパンを最後の晩餐よろしくいただきに並ぶのですが、信者でなくても並ぶことができます。聖体拝領はできないのですが、神父様から祝福を受けることはできます。意外にも並ぶ生徒が多くいるのです。中にはありがたい何かを授かるという気持ちの生徒もいるでしょうが、感謝の気持ちが生まれていることは確かで、それはそれでよいのです。

★そんな姿を見ながら、ドイツの若き俊英の哲学者マルクス・ガブリエルさんが、マインドを超えた意味でのスピリチャリティが、これからは大事なんだと言っていた意味が何かわかったような気がしました。

Photo_20220702173601

★今回のパンデミック及びウクライナ侵攻によって、ケアの重要性が浮き彫りになっています。そのようなケアに挑むエッセンシャルワーカーはケアクラスと呼ばれてもいます。このケアは、しかし、マインドレベルなのかスピリチュアリティレベルなのかでは、微妙に次元が違います。

★キリスト教の教会では、神父・牧師及び信者は、自分のマインドを超えてスピリチュアリティに行き着くことを目指します。もちろんなかなかそうはうまくいきません。マインドに引きずられてしまうのが人間というものです。

★キリスト教でもカトリックでは、信者は7つの秘跡(聖体拝領もその一つです)を介して、スピリチュアリティを感じることができます。

★プロテスタントは、ダイレクトにスピリチュアリティとコミュニケーションができます。こんなに単純ではないでしょうが、大きな違いは手法の違いで、スピリチュアリティを感じたいというのは同じでしょう。

★しかし、キリスト教の学校は、その多くが教職員も生徒も信者ではありません。したがって、神様のレベルのスピリチュアリティの話をしても、オカルト的な話としてしか理解できないでしょう。

★ですから、教会とは違い学校では、自分よりも大きな存在としての何かを感じ、自分のマインドをこだわりや頑なな固執から解放されることの重要性に気づくという機会を折に触れ創っていくということでしょう。

★その大きな存在が、キリスト教的なスピリチュアリティに通じるのかどうかは、生徒によって違うわけです。それについては、私たちは何もできません。

★詩人が森を散策しているときに、小さな自分の存在という自分のマインドに気づくということはよくありますね。でも、その存在がキリスト教的なスピリチュアリティであるかどうかは、わかりません。

★いずれにしても、PBLで大事にされているリフレクションは、ネガティブなメンタルモデルに気づく瞬間でもあります。デューイ自体が、PBLにおけるリフレクションをどのレベルでの気づきに設定していたかどうかはわかりません。しかい、ヘルバルト主義という実証主義的世界観を批判していましあから、マインド以上のレベルではあったでしょう。

★マルクス・ガブリエルさんは、マインドだけではうまくいかないというのは、大きな存在をモニタリングできるスピリチュアリティは必要だということなのかもしれません。カント主義は、もの自体はわからないというわけです。そして、わからないものはないに等しいのだとしてきたのですが、わからないからと言ってないというわけではないのだと。

★だから、ガブリエルさんは、マインドだけの中での存在はないのだと過激にも言い放ったのかもしれません。存在は、マインドとスピリチュアリティのコミュニケーションが生み出すものだからというわけでしょう。

★ガブリエルさんは、京都を歩くのが好きなようですし、日本には、ドイツと同じようにマインドを超えたスピリチュアリティを感じる感性があるというようなことをNHKの番組で語っていたような気がします。

★勤務校はカトリック校です。信者を増やすことは目的にしていませんから、スピリチュアリティというのは、まずは自分を見つめる時、大きな存在を感じ、そこから自分のマインドに光を当ててリフレクションするという環境をデザインすればよいのだと私は感じています。

★ケアクラスもマインドレベル、大きな存在を感じるレベル、スピリチュアリティを感じるレベルによって、言動は変わってくるのでしょう。もぎろん、いずれのレベルも尊いことに差はありません。

★やはり、どうもレベル分けをする癖が思考コードでついてしまっている自分のマインドを超えるモニタリングは私自身もしなければならないようです(汗)。

|

« 内田真哉先生 人生はプレイフルラーニング 幼稚園のときに生まれる希望を持続可能にする教育を実践 | トップページ | 東京私学教育研究所「所報№87別冊」 バックキャストは未来からではなく、未来を超えるところから構想するというコト »

創造的才能」カテゴリの記事

創造的対話」カテゴリの記事

PBL」カテゴリの記事

高校入試」カテゴリの記事

聖パウロ学園」カテゴリの記事