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2022年3月29日 (火)

2089年から考える21世紀型教育(09)中原淳教授の「経営学習論」 ピーター・センゲの「学習する組織」を超える視座

★中原淳教授の「経営学習論」は興味深い。ピーター・センゲの「学習する組織」を無視はしていないが、実証的にそれを超える作業を丁寧に行っている。そして、実証的な論調がゆえ、ピーター・センゲのような創造的な閃きがなさそうな表現がゆえに、一見すると静態的なトーンで進むのであるが、行き着く先は、スーパーダイナミズムである。

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★いかにダイナミックなのかは、読み手によって変わるだろうから、それは手に取って読んでいただきたい。もちろん、私は相変わらず斜め読みで申し訳ないが、刺激を受けたことに違いはない。

★何が刺激的かというと、ピーター・センゲを超えていくということは、21世紀型教育そのものが変容するということなのである。それは確かに画期的だ。これまでの21世紀型教育は、20世紀の物質文明依存主義からの脱却だった。脱偏差値なんて言説は同じ意味である。ピーター・センゲのシステム思考が知的で精神的な活動の好循環をもたらす発想であり、物質文明が破壊してきたこの循環の回復だった。

★しかし、人類は誕生するや物質を道具として、その道具を介して文明や文化を構築してきたわけだ。したがって、今後、私たちは、物質と精神とか身体と精神のような二分法はとらない。この二分法は、組織において、現場主義的な知と理論知をわけてきた。

★これは、極端に言えば、中等教育機関と高等教育機関(大学)は違うという話につながってきたし、企業においては、現場主義と研究主義とは違うと二分されてきた。受験と教育は違うというのもそうだ。

★どこの領域でもシンクタンクがあるが、やはりシンクタンクは現場と乖離してきたというか、そう話されてきた。

★デジタル化という新しい道具によって、その二分化の壁をクリアしようということなのだ。デジタル化を進めたくない人は、二分化が居心地がよいからである。ただ、二分化を進める便利主義はデジタル化推進者の中にも大勢いて困るのだが。

★ローカルとグローバルという二分化も、この二分化と同期する。デジタル化やSNSを規制したいという動機付けは、二分化という格差主義によって利益をうる層がいるからである。

★ドネラ・メドウズの生み出したシステム思考は、この二分化を限りなく越境していく発想だった。それがゆえに、彼女の発想は小学生にも浸透する勢いだった。しかし、今はその勢いは限定的だし、その後継者の1人であるピーター・センゲも理論知の中に収納されてきている。

★二分化は近代化の十八番であったが、その出発点においてもう一つの近代化があった。それは、法実証主義による制度設計によって、無視されてきた。その出発点において、デューイやパース、ジェームズは回復しようとしたし、最近ではハワード・ガードナー教授がアート知によって回復しようとしている。

★20世紀型の失敗を問うているだけでは、21世紀型のビジョンは、独り立ちしない。その点、21世紀型としての経営学習論が立ち上がる突破口を中原淳教授は語り始めている。

★ただ、二元論ではなく、多元論的一元論なので、複眼的視座で関数的変容把握をする必要があるのではないかとは思う。つまり、思考コード的発想であると思うわけである。

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