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2021年12月 2日 (木)

中高一貫校選択のための学校新分類(2)伝統的の意味 実務的なカント主義といってもよいかも 麻布と成城学園を例に

★日本の近代官僚教育は、東大の初綜理加藤弘之が、啓蒙主義的な影響やキリスト教的な影響を切り捨てて、福沢諭吉や石川角次郎(聖学院の初校長)と袂を分かったところからはじまるということでしょう。加藤弘之は、はじめ福沢諭吉らと啓蒙主義的な発想を大事していたが、転向といわれているように、俗流進化論的な発想に変わった。

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★この加藤弘之の転向は、明治日本が1989年の近代憲法を制定した時の発想に合わせざるを得なかったからというのもある。この明治憲法はフランス型ではなく、ドイツ型。ドイツ型と言えば、哲学ではヘーゲルに代表されるかのように錯覚されるかもしれないが、当時のドイツの法学界は、ヘーゲルを捨てていた。ヘーゲルは啓蒙主義的なグループに位置するから、そこまで意識していたわけではないだろうが、当時の近代国家は、もっと実務的な路線だった。

★この実務的というのは、実は2通りあって、それはカントの流れを実務的にしたものとヘーゲルの路線を実務的にしたものがある。前者の代表がヘルバルトであり、後者の代表がプラグマティズムの路線をとったデューイやパース、ジェームズである。

★日本の近代官僚教育は、さらに民法や商法の法律進化論の影響を受ける。それは教育も制度設計されるわけだから、憲法や民法、商法の影響を受けざるを得ず、そういう意味では、ヘルバルト主義が公立であれ私立であれ継承された。

★その流れの中で、大正自由主義教育のようにデューイをはじめ米国の進歩主義教育を取り入れた私立学校がでてきたわけである。とはいえ、そのシェアは私立学校と言えども多くはなかった。公立学校でも取り入れられたが、教育全体というよりは、教育手法という取り組み方だったと思われる。

★それに、今では、現場において、ヘルバルト主義だとかデューイ主義だとか意識して教育を実施しているところはほとんどないだろう。だから、こんな話は何か意味があるのだろうかと思われる方が多いに違いない。

★とはいえ、一方通行型の講義主義というのはよくいわれるが、これはヘルバルト主義の合理的教授法のおそらく典型だろうし、インストラクショニズムというのも、ヘルバルト主義の延長だろう。意識はしないが時代拘束性の中にある。意識しなくてよいのかどうなのか。。。

★ともあれ、このシリーズで学校分類で使っている「伝統的」というのは、ヘルバルト主義のことを言っている。ヘルバルト主義は、表面的にはカント主義で、カント自身が意図していたかどうかわからないが、認識論と道徳と美学をきっちり分けて考えている。わかりやすさ、明瞭さを重視する。つまり、客観と主観を分ける二元論をベースにしているが、その主観も客観的に説明できるという立場だろう。客観的に形式化できる主観が道徳であり、それ以外の主観は恣意として排除されるがちな教育である。

★興味と関心を引き出す心理学を大事にはするが、すべての主観を受容するわけではないから、近代国家を形成する知識や技術に興味と関心があるという主観が選択され、それ以外は排除されるから、自ずと教育格差が生まれるシステムがそもそも包摂されていた。この教育格差は、経済格差にストレートに反映する。

★私立学校の中には、その危うさに気づき、「自由」という言葉で、その排除されたものを拾い上げていった学校がある。麻布はその代表格だったのではないか。それでも、基本はヘルバルト主義だっただろうから、その伝統を修復して「自由」を回復するカント的というか啓蒙的普遍主義を議論し続けたという意味で、「伝統的普遍校」というカテゴリーに入れようと思う。記号で表せばC3。

★一方、デューイなど進歩主義的な教育、いわばアンチ・ヘルバルト主義から始まったのは成城学園である。成城学園は、そこからヘルバルト主義も取り入れる。しかし、再びデューイ的な路線も快復している。21世紀型教育とは、いわばプラグマティズム教育の現代化を果たしていると言えるから、現在の成城学園は、普遍的21世紀型教育校のカテゴリーにはいるだろう。番号でいえばX3の場所である。

★思考コードの領域でいえば、麻布は、A軸思考とB軸思考は掛け算だが、C軸思考は足し算。成城学園は、A軸とB軸とC軸は掛け算。東大の一般選抜は、A軸×B軸で解けるものばかり。推薦入試は、A軸×B軸+C軸。帰国生対象の入試はA軸×B軸×C軸。

★欧米の海外大学は、A軸×B軸×C軸。それゆえ普遍的21世紀型教育校から海外大学に進学する生徒が目立ち始めたわけである。日本の近代教育は150年も経っていないのだから、当然ヘルバルト主義を換骨奪胎するところまではいっていないだろう。換骨奪胎か脱構築かヘルバルト主義とは別路線をとるのか。今回の学習指導要領はアンチ・ヘルバルト主義も接ぎ木した。接ぎ木だから、画期的かどうかはわからないが、これまで7回学習指導要領とは、8回目の今回の改訂は一線を画すことは確かだろう。はたしてどうなるのか。ともあれ、ようやくヘルバルト主義一本ではないことが国家ベースで静かに宣言された。

★日本という国家自身も何か変わろうとしているわけだ。さて、国民は?あいかわらずわかりやすさ。ヘルバルト主義の象徴用語である。わかりすさは、何か専門的な領域から解放されているかのように使われているが、それもまたヘルバルト主義という専門的な用語なのである。実務的こそ近代国家の大好きな専門的な言説なのである。一見すると、その真逆の官僚用語は、あくまでわかりやすさの重要性を浸透させるための戦略的用語だったのかもしれない。厳密性と明瞭性のパラドクス。

★わかりやすさの浸透は、近代官僚国家の戦略だったするならば、格差を生み出すには、わかりやすさを流布させる必要があったのであろう。伝統的普遍校の1つである私立学校出身の岸田首相。その政策も伝統的普遍主義。格差を是正しようとするけれど、格差を根本的になくそうとはしないのかもしれない。

★希望は普遍的21世紀型教育校にあるということだろう。

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