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2021年11月28日 (日)

自他肯定の境地は悟りではなく、いまここで生み出したいと思う今日この頃。

★多くの生徒ばかりだけではなく、教師も、いや市民も、自他肯定の境地をいまここで生み出せるにはいかにしたら可能か。これが今私に降りてきたことです。人間だれしも悩むし、自分のことを認めてもらいたいと言動をとります。しかし、それは自己表現ではなく、なぜ自分を認めないのだ、認めるように他者をコントロールしたいという欲求です。それは本当に自分がしたいことかというと、そうではないでしょう。

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★どんな人も、自分がやりたいことは、自分が幸せになること、それには他者も幸せになることでしょう。何をきれいごとを言っているのかといわれそうですが、人間の存在は、極めてシンプルなんです。でもこのシンプルなありのままの存在性に気づくには時間がかかるし、意外と達成しないまま孤独のうちに人生を閉じることになる場合も少なくないでしょう。

★でも、本当に孤独でしょうか?朝、生徒が来る前に学校に行きます。朝、準備する仕事(ハンコおす書類とか、スケジュールの調整の確認とか、精神性のコンディションの確認とか、あります)があるからですが、何よりも、パウロの森の息吹を吸い、命の響きに共振できることが、自分の小さな存在を支えてくれるような気がするからです。

★この響きが、生徒から聞こえてくるときもあります。対話をしたり、部活の時の声が森の奥からこだましてきたり、ハンドベル部の響きに耳を傾けたりするときに、それから問題が起きたときに先生方が真剣に語り、共に実行する時に。

★それらの時に、感じるのは、自然の大きな存在です。夜、パウロの森には、鹿が歩き、イノシシがあるき、ハクビシンが歩いています。その他多くの生命がパウロの森には生きています。朝、大きな天空とそれを受け入れるかのようなパウロの森に包まれて、自分もその命の1つであり、毎日、パウロの森からコンコンと湧き出る水を飲み、ああ森の生き物と同じ命の水を共有しているのかと思うと、孤独とは無縁だなあと感じるわけです。

★このような境地は、以前は悟りの境地で、いまここで到達できるものではないと思っていました。しかし、それはどうやら間違いですね。聖人や仏の道に進まなくても、市民一人一人が達成することができる道だと思うようになりました。

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★最近は、パウロの森をおりて、都心の会合に出る機会も多くなってきました。年末というコトでしょう。先日も、芝公園にあるホールで行われた私学振興全国大会に参加してきました。吉田会長(日本私立中高連合会)や近藤会長(東京私立中高協会)が、多くの私学人と共に、自分の学校だけではなく、私学全体、いや日本の教育全体をよくしようと、政治家に働きかけて、制度設計の改善やその持続可能性を組織的に対話し続けている姿を拝見しました。

★そこには、末松文部科学大臣をはじめ、元大臣クラスの議員も30人ほどやってきていて、互いに意志の確認をしていました。政治家の思惑もあるでしょうが、信念と思惑の揺れ動く中で、吉田会長と近藤会長の熱い信念の方を共有していた瞬間に出会えました。

★2人の私学人の高邁な精神と勇敢な姿勢は、すでに悟りの境地です。やはり、私たちは、いまここでその境地に達しないと、シンプルな、あるいはありのままの本来の人間存在を回復できないし、それは老人の行き着く世界ではなく、いまここで老若男女すべての市民の生きる権利だなあと思いました。

★自然という大きな存在、先輩という大きな存在。自分の存在とはかなりのギャップがありますが、そのギャップを埋める道を歩くことは、どうやら孤独ではなさそうです。

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