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2020年10月28日 (水)

プロジェクトの作り方(03)神崎先生の探究の方法。思考の内的連関法。②MMWの出現!

★神崎先生の思考の内的連関法について追跡しているわけですが、これは、クリエイティブシステム思考(相変わらず腹痛が痛いという表現で申し訳ないですが)のループの追加と削除の繰り返しを行うその過程を追っていると置き換えてもいいと思います。つまり、ポートフォリオではなく、ハワード・ガードナー教授の言うプロセス・フォリオかもしれません。

Kanzaki3

★ポートフォリオという作品集をみたとき、実は見ているのは、1つはその背景にあるモノです。その作品ができる時代の精神や変化、影響し合った人間とその関係。その作品に投影されている感覚やときにはトラウマの転移の具合も。

★もう1つは、その作品の内的連関の形成過程です。これは、背景のモノと作品というモノを結び付け、それぞれ物象化してしまったモノどうしに息を吹き込み、モノからコトに変えて、個々の価値観やもののみかたを解体します。個々の自分の主観だと思っていること、絶対的な客観性だと思っていることを揺さぶります。クリティカルシンキングと呼ばれているコトだし、間主観と呼ばれる状況でもありましょう。

★しかしながら、わたしは、この作品と背景とその人の内的連関のすべての関係総体をつなぐ見通しがたったとき、内側から協働主観(間主観でもなく共同主観でもなく、つまりインターサブジェクトではなく、コラボサブジェクトだと表現したいわけです)が顕れてくるのではないかと考えています。神崎先生の学校の教師や生徒と行っているのは、この協働主観の果てしない物語だと思います。果てしない物語だらこそ、ここに希望があります。神崎先生が紡ぎ出していく事態(ものではなく)は、神崎先生という「私」であって、「私」以上の「私」です。つまり、「私」を超えた仲間との、また文献の向こうの他者との、時代を超えた無数の他者との、まだ見ぬこれからの未来の他者との、協働主観という「私」です。

★それはある意味、ZENにおける十牛図の過程そのものであり、最終的な境地に達するとそこには幸せが。。。いや、実はこの過程を歩めることこそそこにマインドフルネスが生成されるのだと私は思います。今世界はこの神崎メセッドの内的連関法が生み出すマインドフルネスを共有しています。グローバル・シンクロシニティと私は呼んでいます。ただ、それは内的連関法によって明らかになるでしょう。

★またまた、本間は何を血迷ったかと思うでしょうし、神崎先生も大迷惑かもしれません。しかしながら、私は「自分軸」とか「自分事」とかいう言葉(言葉自体は問題ないのです)で、十牛図の道行の壁になってしまっている。つまり、「自分軸」とか「自分事」の道行の本来性を物象化して未来を語りつつエゴの素描を共有している世界があるのも目の当たりにしているのです。

★そして、神崎先生は純粋にもそこに立ち臨んでいるのです。しかし、それができるのも、企業家/起業家として自分の足でこの地球に立っているからですね。制約されつつも自由な空間を自分で生み出すことができるポジショニングをゲットしています。もちろん、その「自分」は協働主観性を生み続ける関係性のストリングスであるわけです。響きとしての「自分」であるわけです。その「響き」をかき乱したり、防音装置を押し付けようとする行為に、神崎先生は権利の闘争をしかけるわけですね。

★物象化されきったモノ(人も認識も)に対話という息を吹き込み覚醒しようと必死になるわけです。あちこちで神崎先生のまわりでは協働覚醒が起きているわけです。もちろん、反作用も大きいのですが。というわけで、その内的連関法の軌跡をしつこく追跡しているのです。

★さて、前回の続きです。例によって神崎先生のトークとその私の解釈をいったりきたりします。

 「それは具体的には◯◯を対象としているということかな?それとも△△?」 
ここで「決まらない」と言い出すことがあるので、そのときはウェブを使って一緒に探ります。

★抽象と具体を往復するわけですね。このとき生徒によっては、演繹的論理と帰納的論理をたどっているということをメタ認知を発動している場合もあります。ここがメタ認知できるようになると、手放せるのですが、そこはそう簡単ではないから、リサーチや推理のプロセスを伴走するよと。これは、まだ協働主観ではないですね。伴走するよということです。その伴走について、神崎先生はこう語ります。


トークの中のキーワードを手がかりにCiNiiで論文を探してさっくり読んで(URLは生徒さんと共有)、「こういう論文があるね」「対象はこれくらい具体にするといいよ」みたいな話をしたうえで、「どんなのを研究対象にする?」と聞いてみます。そこで得たキーワードを加えてCiNiiで検索、の繰り返し。ここら辺までは、具体と抽象の行き来、ときに選択肢の提示くらいまでの問いかけ。この辺りから少しずつ介入します。

★文献リサートは複数の論文を読むのがポイントだということですね。これは、国際バカロレアのMYPのパーソナル・プロジェクトなども同様です。複数の論文作成者の視点の関係性を考えていくと、ズレや差異が見えます。あれっ?とかなるほど?ああ!となりますね。新しい関係性が生まれる瞬間。つまり協働主観が内側から響き始めます。ここまでくる、問いのやり取り、このプロセスフォリオを生み出す問いの創り方が重要であり、単に問いのつくり方が大事だなんて言うのは、要素還元主義的なお話なのです。神崎先生は、生徒がこういう発想を払拭して内的連関性の端緒を見出してきたところで、放置するのではなく、「介入」するわけですが、その点に関してこう語ります。

気をつけるべきは、こちらが決めないこと。生徒の内側から出てくる意志を尊重
昨日介入したときに投げかけたことを言葉にすると…
・解決策を妄想して先走っていたら原因分析を促す。自分の主観がまだ間主観になっていない場合、リフレクションをする
・コトの経緯や要素ごとの因果や相関といった関係性を整理し、どこに着目すると研究として成立しそうかを一緒に考える。関係を考えるるリフレクション 部分を全体にしてめた関係を創り出す。
・将来の志望を聞きながら研究の範囲を絞る。ここで研究の範囲と主観を結びつける
この方向だと迷走しそうだと直観したので、CiNiiで論文読んで確認し、軌道修正する。まだ、主観と間主観が主観よりなので、リフレクションのため別のエビデンスを見つけるためにリサーチ 主観より大きい間主観をみつける。
・生徒さんの話をもとにアナロジーをきかせて研究の方向性を決めるヒントを投げる。

★なぜ放置しないで、「介入」するかというと、内的連関の循環が変容しないままになると、物象化してモノ化してしまうからですね。閉鎖的循環へのリスクを回避するためです。この「介入」は、ある意味コーチングであり、ある意味ファシリテーションです。この両方を合わせた言葉がなかなかいいのがありませんね。

★神崎先生が「気をつけるべき」というのは、「介入」は「干渉」というネガティブな意味も含んでしまうので、そこを阻止しようという話です。干渉ではない介入ということを表現する言葉は何でしょう。私はMindMidWife(MMW)と名付けようかなと。

★「精神の産婆」という意味です。プラトンがソクラテスの問答法を産婆術と置き換えたのですが、その置換は問答法=産婆術ではなく、問答法<産婆術だったと私は思います。今でいう助産師さんのたとえですが、この仕事は実に尊いのです。孫が誕生して、その重要性についてひしひしと感じ入りました。

★私たちは子供を創ることはできません。でも世に出ることの手伝いはできます。助産師さんは、生まれる前、妊娠期間、出産、産後のケアまで余念がありません。子供の自然な成長を見守るわけです。放置しておくとたいへんなことになります。でも干渉しすぎると体調を崩します。母体も危うくなります。

★ここからすでに協働主観性は始まるわけですし、この人類が誕生した時から協働主観性は連綿と続いているわけです。助産師さんから離れた後、子供たちは放置されているとこれまた大変になります。今度は教師に引き継がれます。学校の先生とはもちろん限りません。神崎先生のような師がいるのです。

★神崎先生はその意味では、ソクラテスを超えた問答法であるMMWを行っているのだと。そして、それを広めているのだと。(つづく)

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