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2020年10月19日 (月)

新しい教育社会(10)首都圏私立中高一貫校の革新性の3つのベクトルと学習観の違い。

前回、首都圏私立中高一貫校の革新的教育の大きな3つの流れが広がっていることについて述べました。コンサバ教育も含めて、教育に対する価値志向が4つあることを述べたわけです。ここでは、その革新的教育のそれぞれの価値志向がどんな学習観を求めているのかあるいは生み出しているのかというのを考えてみましょう。

【図1:教育の価値志向と学習観】

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★一般に、学習観は、「知識と理解」という「基礎」をしっかりして、「応用と論理的思考」を身につけるというものが多いでしょう。入試問題は学校の顔ですから、入試問題を分析すればわかります。中学入試の2科・4科入試、公立の高校入試、大学入学共通テストをみれば納得がいくでしょう。

★カリキュラムというのは、この入試問題に接続するものであるからです。よく大学入試問題を超える学びが必要だという話を聞きますが、それは本来おかしな話なのです。

★というのも、入試問題は、多様な才能を評価できるものでなければならないからです。思想・表現や学問の自由を制約するものであっては民主国家ではいけないのです。その自由を制限できるのは、危害原理や不快原理ぐらいなのに、日本の文化だとか称して家父長的なパターナリズムで制限をかけているのが、日本の入試問題です。

★学校教育は、民主主義を学ぶ場所なのに、民主主義について語ることは政治的中立をはみ出るからしないことになっています。民主主義はあくまで、教科書の中の客観的な知識として覚えるのが勉強だったということなのです。

★もちろん、私立学校はここはさすがに少しはみでていますが、コンサバの枠内での自由の表現であったのです。競争して自由に階層構造の椅子取りゲームすることが保守されてきたのです。しかし、階層構造をどうしたらよいのかという議論はタブーでした。

★そんなわけで、革新的教育はそこを脱しようとしたわけです。ですから、それには「批判的思考や創造的思考」を組み込まなくてはならないと、「知識と理解」という基礎力を土台に「応用と論理的思考」「批判的思考と創造的思考」の両方を乗せる動きがでてきました。もっとも、ブランディング、つまりマーケティングが基本的発想ですから、目に見えない本質は語りません。それはマスにはウケないからです。

★もちろん、マスは「本質」という言葉は大好きです。ですから、「批判的思考と創造的思考」こそ「本質」だというわけです。

★一方コンサバをぶち破るもう一つの流れは、GAFAの影響を受けていますから、そもそも「本質」という考えそのものが自由を制限するではないか、自由を制限することは楽しくない、ワクワクするには徹底的に自由を!というわけです。かくして自由を制限するものを徹底的にとっぱらうという過激なリバタリアンですから、学習指導要領でやらなければならない最小限のことを学習アプリに任せて、あとは自由に興味と関心のあるものを徹底すればよいのだという学習観です。

★ですから、基礎を何にするかは、生徒1人ひとりの興味と関心に任せ、本来なら既成の教科書的知識もいらないのだけれど、つまりHTHのようにやりたいのだけれど、ナショナルカリキュラムがあって、一条校はそれを守るということになっているので、最小限にとどめ、あとは最大限自由にという学習観です。

★コンサバからみれば、基礎である知識と理解は権威の象徴です。それをたくさん仕入れて使える能力が高いことが知識階級の本質ですから、そこをワクワクしないからいらないといわれると頭にくるわけですね。ブランディング主義のリバタリアン志向性は、本質は市場が決めるから、市場のニーズに従うことが本質です。批判的思考と創造低思考を欲していると思えば、それを本質とすればよいわけです。生徒ファーストではなく、市場ファーストです。

★コンサバは、権威市場のニーズ、ブランディングリバタリアンは、新規市場のニーズを本質としています。GAFAリバタリアンは、生徒ファーストで、生徒の興味と関心が本質と言えば本質ですが、個別最適化ですから、普遍的な本質はどうでもよいのです。

★そういうと本間は何かこのリバタリアンを認めていないのではないかと誤解する方がいます。しかし、誤解する方は、権威市場のニーズという本質か新規市場のニーズという本質を唯一正しいと思っているから、そのメガネでホンマノオト21を読んでいるからです。

★このGAFAリバタリアンのお話は、ギリシアの哲学が生まれて以来、ずっと議論されてきて、中世で普遍論争という葛藤の一端をになっていて、未だに解決がついていない価値論争の延長の話です。もし文化論を語るのなら、ここはおさえておく一つの流れです。専門的には極めて複雑で、それを整理して、一つの提案を語ることなど私には無理です。

★ただ、唯名論(ノミナリズム)か実在論(リアリズム)かというざっくり二つの論争があるというのはわかります。本質なんてないよあるのは個物だけ、だから名前があるだけで、本質は実在しないよというのが唯名論です。いや本質は普遍的に実在するんだよというのが実在論です。これをめぐって、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカの若き新進気鋭の哲学者やアーティストらは再定義しようとダイナミックな展開をしていますね。NHKも欲望の資本主義という特集を流していましたが、その中で、ドイツの哲学者マルクス・ガブリエルが度々登場してきたのは、そうした壮大なグローバル文脈を追っているからですね。

★さて、もうおわかりですね。実はコンサバにしてもブランディングリバタリアンにしてもGAFAリバタリアンにしても、唯名論的価値志向であることは変わりなく、普遍的本質は必要としていないのです。コンサバ本質かブランディングリバタリアン本質かGAFAリバタリアンとして本質を認めないかの違いはありますが、いずれも普遍的本質を排除しているのです。

★かくしてDAVOS型革新教育は、普遍的な本質があるという立場です。ですから、「知識・理解」という思考にも、「応用と論理的思考」にも「批判的思考と創造的思考」にも共通する本質があるという学習観なわけです。しかも、それらはクリエイティブシステム思考として全部結びついていてシナジー効果を生み出す掛け算になっているわけです。

★この本質的な部分が「基礎」なわけですね。とはいえ、この「本質=基礎=普遍」が何かは、またいろいろなのです。キリスト教精神だったり、リベラルアーツだったり、IBでいうTOKだったり、哲学だったり、知の横断だったり、サイエンスだったり、マインドフルネスだったり。しかし、いずれにしても生徒ファーストであることは一致しているのです。

★「思考スキル」というのが、たんなるツールだとするか、本質だとするかはこの普遍論争的な価値観の違いが反映しています。IBのプログラムの中では、スキルは本質を生成する媒介項です。哲学的には形相というものです。ですから、IBを探究している先生方とはスキルの話は盛り上がります。IBはもともとリベラルアーツがベースですから、リベラルアーツを実践している先生方ともスキルの話は盛り上がります。

★スキルなんてツールだよ受験テクニックだよという価値観の先生と話しているとスルーされてしまいます。ロイロノートで使っている思考チャートは、ツールでしょと。

★いずれにしても、この多様な学習観が顕れてきたということが極めて重要なことなのです。日本にも未来が見えてきたのは、この学習観の多様性がでてきたということです。それを一つの価値観にしようという話をするのは権威主義的な一つの価値観であり、その価値観を認めはするけれど、一色にしようというのは危険です。

★コンサバあり、ブランディングリバタリアンあり、GAFAリバタリアンあり、普遍主義ありでよいのです。学歴社会のまずいのは、コンサバ色一色になっていることですね。

★いずれにしても、この普遍論争は、アリストテレスの形而上学に端を発しているのはたしかです。サンデル教授が頻繁に引用する哲学者がアリストテレスというのもおもしろいですよね。

★私自身は普遍主義者ですから、この価値が認められるには、多様な価値観が顕れることによってのみ可能だと思っています。コンサバ一色の学歴社会が多様な価値によって、one of themになることは、普遍主義的な人間の生きる自由を認めるうえで重要だと思っています。マックス・ヴェバーではないですか、この価値の神々の闘いという価値自由の社会を持続可能にすることこそ大切だと私は願っています。

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