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2020年8月18日 (火)

ポストコロナ時代の「私とは何か?」(02)野の花のような自己はありうるのか?

★お盆休みにはいる直前に、アサンプション国際の理事長シスター宮本から電話がありました。同校幼小中高におけるPBL授業の大切さについて30分ほど対話をしました。

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★シスタ―が語るには、本間さんのPBLは、思考力の開発が目的ではなかったのですねと。いきなり核心に触れる問いかけからでしたが、たしかに、そうかもしれませんと回答しました。

★ただ、思考力開発は、潜在的な賜物を掘り当てるためには必要な道行ですとは付け加えました。

★シスタ―は、道行という言葉にはすぐに理解を示し、やはりそうなんですねと。しかも、賜物と言ってもいわゆる才能ではないのでしょうと。

★それはそうです。今の才能は功利主義的世界を拡大するための才能ですから、シスターが思い描く才能ではないですよね。たとえれば、野の菫というか、野の花だろうし、ぶどうの木ですよね。彼らは、ありてあるもので、そのままをうけいれている。

★そんな対話をしていたら、昔々教科書にでてきた芭蕉の句「山路来て 何やらゆかし 菫草」を思い出した。こんな境地になれたら最高だし、国連のノーマン・ロックウェルのモザイク画にあるように、このマインドは、あらゆる宗教、民族、人種に通底すると改めて感じた。

★ともあれ、シスターとは、そういうゴールデンルールの意味での賜物を掘り当てる過程がPBLだというアサンプション国際ならではの考え方を確認しました。

★トラウマから出発しなくてもアイデンティティは語れるのだと。

★そうはいっても、私の方は世俗的な市民なので、そのゴールへ向かうことが、思考力を開発することになるし、その思考力は、新しい世界を作るサバイバルスキルにもなると思ったのですが、そこまでは、はっきり言えませんでした。しかし、シスターは、「わかりました。PBLで育つ生徒が世界を変えるのですね。授業が世界を救うという発想はすばらしいわね。ありがとう」とコメントして電話はきれました。

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