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2020年8月 7日 (金)

ポストコロナの大学入試問題(03)なぜ総合型選抜(AO入試)は本物なのか?それゆえ学校は勧めない?

★大学入試で帰国生入試や総合型選抜(AO)入試を高3生と対話しながら対策していくと、実によく意欲的に学ぶし深い対話が好きだし、未知なる世界に冒険するのが好きな生徒が多く、いっしょに歩いていくのが楽しいのです。もちろん、あるところからは独りで歩いていくのを見守るだけの段階になるのですが。この手が離れていく感じの時、たいていは吉報を贈ってくれることになると静かに期待することになります。

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★そして、同時に学校の先生は、たいへんだなと敬服してしまいます。というのも、私は友人から〇〇大学受験生なんだけど小論文のところだけ手伝ってよといわれたとき、引き受けるだけですから、極めて人数が少ないわけです。ですから、毎回対話ワークショップでできます。

★小論文だけなのですが、結局は、志望理由書や自己推薦書、それから口頭試問のトレーニングも友人と協力して行っていきます。基本的には課題を出して書いてきたものいついて対話するのですから、小論文→口頭試問・面接の部分は毎回行うことになります。

★小論文の書き方やフォームはそんなに難しくはないのですが、一番困るのは、体験が小論文に結びつかない場合が多いのですね。

★一般受験の小論文指導は、この体験はあまり関係ないのですが、総合型選抜入試は、自分の気づきや問題発見によって生み出された価値がカギになってきます。

★その価値に基づいて論理的に展開できるし、批判的思考の視点もそこにあるわけです。もちろん、独りよがりではいけないので、リフレクションして相対化して気づきを自ら生み出すことになる哲学対話は必要です。ある意味モニタリングです。

★となると、予定調和的な体験ではあまりこの自己と世界のかかわりの気づきのインパクトがないわけです。矛盾や痛みを受容できないわけです。その生徒なりの強烈なインパクトがある体験、そこで限界を超える体験をしてきたかどうかは、論文の書き方なんかよりよほど重要です。書きたいことがあれば、実は自然と論理展開をするものです。

★生徒が課題を考え小論文を書いてきたとき、その自分のよってたつ価値と問題になっている論点の背景にある価値の差異を問います。その価値のどちらを優先するのか、そのためにはどういう解決策があるのか、相対化しながら(メタ認知)、論を展開しているかどうか対話していきます。あまりなぜは聞きません。なぜという問いは思考停止になりがちです。語用論的アプローチと構造論的アプローチが中心です。

★そうしていくと、自ずとなぜについては生徒が語りますし。

★それと。添削ではダメなんです。何度も考え書き直して生徒自身が納得するものを自分で仕上げなければなりません。

★しかし、この対話の継続は、学校の先生にはできません。能力の問題ではなく、忙しいからです。

★だから、生徒は自分で哲学するしかないわけです。哲学と言っても、ソクラテスだとかカントだとかハイデッガーだとかレビ・ストロースだとかフッサールだとかマルクス・ガブリエルだとか学ぶわけではありません。

★個人と社会、社会と自然、自分と自分、男性と女性、人間と生物・・・・など対立的なもの(対立するかどうかを発見するところからなのですが)の差異を考え、そこにどんなジレンマがあるのか、それを解決するアプローチとしてどんな方法があるのか考えるわけです。

★事実としての差異とジレンマやパラドクスとしての差異の二重性を考察するわけですが、この差異に気づくには、体験が必要なんですが、超限界体験をしていないとジレンマを見つけるのがなかなかやっかいないのです。

★そもそも自分の顔は自分で見ることができないので、対話が必要になるわけです。ですから、できれば哲学対話ができるメンターが学校の先生の中にいることが大事です。できるだけ、哲学者の名前を出さずに対話できるのが重要です。もっとも哲学科志望者は、それは必要ですが、そうでない場合は、普遍論争が手を変え品を変え今も続いています。近代社会の矛盾もそこから派生しているといっても過言ではないので、その糸口を対話によってつないでいけばよいのです。

★そうそう、今哲学科志望の生徒は必要だと言いましたが、これが一般入試と総合型入試の大きな違いで、学校の先生にとって厄介なところです。総合型選抜は、自分のやりたいことをどの学部や学科で学ぶかまである程度明快にしていくので、専門知識は大学に入ってからにしても、その専門的視座というか素養はもっていないと難しいですね。

★専門的視座というのは、ある課題をその専門的な視座からアプローチできるかということです。わかりやすいのは、法学部ですね。道徳的倫理的視座でのみ語るのではなく、リーガルマインド的発想があるかないかは結構重要です。

★またSFCのような場合は、アプローチが多角的である必要があります。

★一般入試だと、超限界体験も不要だし、哲学対話はいらないし、専門的視座もいりません。まして個人以上の存在であることの価値などに気づく必要もありません。

★もちろん、生徒自身がそういうことに関心をもちながら、一般入試で効率よく学ぶという戦略的な姿勢であればよいわけですが、そういう生徒は50%いないでしょう。

★はたしてそれでよいのか?という思いはあるでしょうが、もともと進路指導やカリキュラムはそのような一般入試用にできているので、総合型選抜入試に現場で対応できないのです。

★それで、哲学対話やPBLによる多様な思考力をトレーニングしたり、超限界体験をリメイクしたりすることができる塾や私のようなところにつながってしまうのでしょう。

★現状、それでよいのですが、学校でできるようにするにはどうしたらよいのか再構築・脱構築したほうが生徒にとってはよいのではないでしょうか。今はZoomなどでオンラインでできてしまうので、通う時間がいらないのですが、学校以外に通いでやっていくとなると、精神的にも身体的にも負荷がかかります。

★それに、専門的視座は、インターンシップでもない限りなかなか身に付きません。論理的思考だけでよいとするらば、慶応義塾大学の一般入試の小論文でよいのです。わざわざFITやAO入試を設ける意味はないでしょう。逆に言えば設定しているわけですから、専門的視座や素養をどこかで身につけてきて欲しいのでしょう。

★では、どうしますか?仮説思考をフル回転してある作業をやります。このときの対話がおもしろいかどうかで、対策の仕方が変わってきます。

★それは何か?は、意外とシンプルで同時に大変な作業であるわけです。

★ですから、学校の先生方は総合型選抜入試はできればやりたくないでしょう。逆にこれに取り組んでくれる先生がたくさんいる学校は、本物です。

★本物はめんどうなんです。目に見えない部分も多々あります。大学に入ってからそういうことはやってよというのも一つの在り方ですが、このような総合型入試に取り組むプロジェクト型の学びの過程を通過してきた学生がのちのち伸びることも活躍することも中原淳教授や溝上慎一教授の調査である程度わかってきていもいます。

★総合型入試(AO入試)を一般入試よりも軽視する教師は、実は効率主義、損得勘定主義なのかもしれません。そういう功利主義がわるいかというとそんなことはまたないのです。価値の違いはよしあしではなく、相対化して見ることが大切です。さてさて、最後は自己決定しなくてはならないのですが、本当に自己決定できるのだろか?もしできるのなら、その学校は共感的コミュニケーションが日常になっている可能性が大です。

★自己決定という名の自己責任論や知らないうちに誘導している抑圧的コミュニケーションが広がっている学校もあるでしょう。AO入試を軽視し一般入試比較優位を唱えているところはそうですね。中学入試でも同じことが言えます。新タイプ入試を軽視し、2科4科入試を優れているとみなす塾や学校は、抑圧的コミュニケーションが日常です。

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