« 就学前の教育(01)内田真哉先生のビジョン | トップページ | PBLの時代(02)PBLはポップ哲学を基礎とする。 »

2020年7月27日 (月)

PBLの時代(01)PBLとは問いを生きること。

★昨日、品川翔英で先生方とワークショップを行っていた時、かつての同僚石井麻実さんにばったり会いました。別件で同校を訪れていたようです。1998年に立ち上げた教育研究所(今は閉鎖)のスターティングメンバーの1人です。今はAIで部長をやっている石井さんとリクルートの編集などにかかわっている教育コンサルタントの江森さん、工学院のカリキュラムマネージメントリーダーの岡部先生といっしょに始めました。

X

(1999年に実験をして、2000年にまとめました。この本もまた絶版です。)

★10年くらいいっしょにやりましたね。懐かしくて、石井さんと数分を共有しました。すると、結局1998年から2007年の間にやってきたことが、今まさに生きていると思い出話しにドッと。当時はPBLを2泊3日で行っていました。「発見体験」という名でHondaとコラボしてやっていたんですが、すでにチーム学習、ディスカッション、ポストイット、対話、ノートパソコン、インターネット、プラットフォーム、ネット上で瞬時に集計できるルーブリックによるエンパワーメント評価、LA(ラーニングアドバイザー)という今でいうファシリテーターをチームごとに一人配置するなど、ほぼ今いろいろなところでやっているPBLのワークショップのプロトタイプはできあがっていました。

★特に、現地で石井さんチームがプログラムを実施している時、常に私が同行するわけにはいかないので、プラットフォームを通じてリモートサポートをしていました。生徒1人ひとりの状況が毎日ルーブリックのデータを集計していくと、把握できます。

★チームの状況がどうなっているかは、LAから連絡がはいります。LAの状況はスーパーバイザーである石井さんや江森さんから連絡が入り、画面でデータを見ながら携帯電話で対話していました。今ならもっとインタフェースが使いやすいのでしょうが、基本は同じです。

★岡部先生は、当時は国内ではなく、米国のロサンゼルスやフランスのストラスブールのPBLでのワークショップをやっていましたから、同じように連絡をし合っていました。1999年の時なんかは、まだネット環境が今のように便利ではなく、ホテルの電話線からネットにつなぐダイヤルアップでした。しかし、コンセプトやデザインは今と変わりません。

★実にシンプルなコンセプトです。3Rから3Xをやるんだ。クリエイティブクラスを生み出すんだ、それで世界を変えるぞだけでした。そのためのリサ―チ、ディスカッション、リフレクション、ルーブリックの環境をいかにデザインするかでした。

★ディスカッションは、結局生徒が自らどんな問いを生み出せるかでした。しかし、当時は学校の先生方もまだまだ解決の成果主義だったので、最終段階のプレゼンではそれなりの成果がでないと困ると言われて私たちも困りました。

★3Xは最後はビッグクエスチョンの発見でオープンエンドで終わりたかったのです。よく、先生方と激論を交わして、最後は業者のくせに生意気だ、今すぐ生徒を引き上げるとかいわれたこともありました。石井さんや江森さんが調整してくれなければたいへんなことになっていたでしょう。

★とにかく、私は怖い人と言われていました。石井さんとか江森さんとかに随分迷惑かけたと深く反省し、今でもときどき連絡をとってくれるのに感謝しています。大親友(と私だけが思っているのですが)の岡部先生とは思い切り決裂する大げんかをしたこともありました。トップダウン型の父性が強いリーダーシップをとっていたのが私で、ボトムアップ型でファシリテーター型リーダーシップをとっていたのが岡部先生ですから、時代錯誤も甚だしい、ついていけない、やめると言われてICT関連の大手の会社やベンチャーの会社に移籍してしまいました。

★でも、国内のPBLが軌道に乗ったので、帰ってこないかいと声をかけて、海外と私学のジョイントプログラムを創ろうよということになりました。基本的には3Rから3Xは、当時のMITメディアラボのシーモアパパート教授のアイデアですから、コンセプトは欧米では誰も反対する人はいませんでした。

★しかし、9.11やリーマンショックには、ちょっと勝てなかったですね。活路をそれぞれいったん見出そうということになりました。当時は教育研究所でPBLのプログラムを創っているところに資金を集積させようという人はいなかったということです。Hondaもだんだん手を引き始めたぐらいです。ただ一人資金の応援してくださっていた社長ががんで亡くなったのを機に、私と岡部先生と江森さんは社を離脱しました。

★今も何かをいっしょにやることはありませんが、基本仕事のベースはPBLであることはみな共通です。石井さんと江森さんはICU出身で、大学当時からPBLを英語で行っていました。岡部先生はUCLA卒業ですから、大学時代はまさに英語でPBLがあたり前でした。私は国内の大学と大学院だったですから、英語は文献調査で使いましたが、まったく議論やスピーチはダメでした。3人がいなければ、英語×PBL×ICTを活用したプログラムや海外出張などできなかったでしょう。

★ただ、PBLは、偶然米国法ベースの教授と法哲学や法制史の教授についていたので、ゼミ形式でPBLそのものでした。アメリカのイエールとかハーバード留学経験の教授だったり、イギリス留学経験、ドイツ留学経験の教授だったので、おまえは英語ができないできないとよくしかられまくっていました(汗)。真面目にやっておけばよかったと3人をみて思いましたが、創造することの方が好きで、どうも真面目にトレーニングするのが苦手でした。

★私の大学は実定法や実務法というか司法試験がベースの大学だったので、法哲学をやるヤツなんて何なんだといわれながらも、当時の法哲学の助教授森末先生が、上智大学のホセ・ヨンパルト教授を呼んでくれました。随分両先生には影響を受けましたが、当時はやっていた現代思想にはまっていた私は、十分にヨンパルト教授や森末助教授の意向には添えなかったのだと思います。世界が狭かったのですね。いやそもそも能力がなかたtのですが(汗)。

★しかし、ヨンパルト教授の対話スタイルのゼミはとにかく楽しかったわけです。この間、GLICCの鈴木代表と帰国生やAO入試を受験する生徒で法学部を受けたいという生徒のプログラムについて議論しましたが、一橋と東大と慶応はある特色があることに気づきました。もし上智大学を受けるとなると、戦略的に2タイプの対応の必要があるなあと。

★早稲田や他の大学はその色はあまりないので、一般的な小論文対策でいけるでしょうが、「一橋と東大と慶応」と「上智」は大きく二つの色がはっきりしています。

★結局、その対応はPBL型にならざるを得ないということで、オリジナルでテキストは作成していこうと。

Qa

★当時、ヨンパルト教授や森末助教授にひょこひょうこついていった東大の法哲学の会で出遭っていた若き俊英たちが、今や、一橋や東大で、あのときの彼ら自身の思想や発想をきちんと発展させていて、その弟子が慶応にいるとは。過去問を見てみると、ちゃんとその影響下の問いが出されているなんて!驚きでした。東大やケンブリッジ、一橋に進学した生徒は、たしかにそういう発想をベースに論じることができたし、上智に進んだ生徒はヨンパルト教授(今は他界していますが)の伝統的なカトリック法思想ベースの論理構築というか倫理観を展開できたなあと。いずれもPBLをやりながら、戦略的なコミュニケーションをㇳレーニングしていたことがよかったのかどうか。。。

★帰国生入試やAO入試は、内申点あるいはIBのスコアと小論文、口頭試問でだいたい決まるので、合格の手ごたえをダイレクトに感じるものです。特にケンブリッジに行った生徒の論理的構築力と哲学的ベースとスピーチ力には驚きました。彼女たち彼らたちはとにかくオープンエンドな問いを考えるのが大好きだし、自らビッグクエスチョンを生み出し、それを考えたりしていくのがワクワクするというのです。

★まさに問いを生きるという感じです。MITのハレ・グレガーセン・シニアフェローの「問いこそが答えだ」という本は問いを生み出すプロジェクトで、これぞPBLの真髄だという本です。私が仲間と挑戦してきた世界を変えるPBLは、まさにビッグクエスチョンを生み出す旅そのものです。

★かつての仲間がそれぞれのポジショニングを得ながらもPBLという探究の道を歩み続けているのは、その原点である問いを生きるということを大切にしているからでしょう。どこかで、また互いの問いのスクランブル対話ができたらいいねと石井さんとは話を終えました。

|

« 就学前の教育(01)内田真哉先生のビジョン | トップページ | PBLの時代(02)PBLはポップ哲学を基礎とする。 »

創造的対話」カテゴリの記事

入試市場」カテゴリの記事

PBL」カテゴリの記事