ポスト・コロナショック時代がもたらすコト(9)学びの危機から危機の学びへ転換
★エドムント・フッサールは、内村鑑三、新渡戸稲造、西田幾多郎、同時代人だが少し若い田辺元と世界同時的なスペインかぜパンデミックや第ニ次世界大戦前夜を共に生き抜いた哲学者。フッサールと内村は第二次世界大戦後は経験していないが。
★とにも、皆、啓蒙思想の伝統をアップデートしたともいえるかもしれない。そういう意味では、内村鑑三をはじめとする彼らと共に、フッサール自身は知る由もないでしょうが、フッサールも≪私学の系譜≫のメンバーです。
★第二次世界大戦前夜に亡くなっているけれど、ユダヤ人迫害による圧力を被りながら最後まで思索を止めなかった。この<思索を止めず>になぜこの危機が訪れているのかを思索したのです。特にナチ下における学問の危機はひどかったでしょうね。しかし、フッサールは、そこからガリレオまでたどって、学問の危機が、実はすでにそこから徐々に蓄積してきたことを検証しようと思索しました。
★プラトン、アリストテレス、トマス・アクイナス、ルソー、カント、ヘーゲルの伝統をアップデートして、言語や幾何学が生まれるメカニズムを紐解いていきました。
★一方、トマス・アクイナスの継承者であるヨハネス・ドゥンス・スコトゥスから学問の危機は鮮明になってきたという理解がフッサールの中にあったのかもしれません。トマス・アクイナスやルソーは、主知主義も主意主義も主情主義も黄金律あるいは一般意思によって統合されるメカニズムを作っていましたが、当時の教会はハイデガーの時代に到るまで頑迷な主知主義だったのでしょう。フッサールの弟子ハイデガーが、カトリックを捨ててプロテスタントに転向した時に、主観や主意、主情に思いきり舵をきりました。トマス・アクイナスよりもドゥンス・スコトゥスの流れを選択したようです。
★カントやヘーゲルは、主意主義や主情主義に憧れはしましたが、寸止めでした。理性の光に依拠しました。
★ドイツの若者がハイデガーに憧れたのはわかるような気がします。当時大学ではハイデガーはスターだったようです。アカデミズムの新進気鋭の思想の旗手だったのでしょう。世界中から彼が死の床につくまで、多くの学者が訪れたとそうです。若き京都学派の面々も例外ではなかったようです。西田幾多郎もハイデガーの言説には東洋的なものを感じ魅了されないわけにはいかなかったらしいですが、危険な臭いも感じ取ったのでしょう。数理哲学者田辺元を京大に招いたのにはそういう理由があるのかもしれません。
★言語の生成メカニズムだけで世界を構築するのはリスクを回避しにくいので、数学的な発想を持ち込みたかったのでしょう。フッサールは自らの中に両方を持っていたけれど、西田はそうではないから応援を頼んだのではないでしょうか。
★それにしても、アンナ・ハレントも最後まで訪ね続けたというのですから、私の理解を超えます。ハレントにとっては、にもかかわらず、ハイデガーだったのですね。ここには濃いドラマがあり過ぎます。
★いずれにしても、ハイデガーは反ユダヤ主義でしたから、恩師フッサールを遠のけます。というより助けなかった。戦後、謝罪の手紙をフッサールはすでに他界していたのですが、師の奥様に贈ったようです。が、彼女の心に届いたかどうかはわかりません。
★しかし、上記の写真のフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」とハイデガーの「存在と時間」は、世界リスクにおいて、どうしてリスクが生まれるのか思索するのに大いに参考になるし、そういう意味では学問の危機を乗り越える危機の学問に挑戦する後の現代思想家にフッサールは影響を与えたし、危機の学問を生み出すはずのハイデガーがどこでミスを犯して学問の危機を生みだしたのかを思索するうえでも、のちの現代思想家に影響を与えました。
★話が長くなりましたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のための緊急事態宣言下にある私たちが直面している危機、すなわち世界リスクは、一つはワイマールの悪夢が迫っているし、オンライン学習によって、リアル時空での授業とオンライン授業の共通点であったはずだけれど、リアル時空での授業では見逃してきた根源的な問いを見出す思索への学びが顕れているという点では、フッサールと時代を超えて共感できます。
★中公文庫の上記写真の本の付録には、50ページくらいの分量なのですが「幾何学の起源について」という論考が載っています。これはPBL授業を行う者にとってはよきメンターブックです。プラトンの「メノン」という小冊子も同様の価値があると思っています。
★フッサールの次世代のピアジェやデューイからPBLは語られることが多いのですが、その根っこである両書に遡ってみるのもおもしろいでしょう。
★特にフッサールの「幾何学の起源について」は、言語の起源と幾何学の起源を分けて考えています。世界言語ができない限り、両方は同じメカニズムで生成されないでしょう。世界言語ができてしまっては世界リスクを知ることができなくなるので、やはり分けて考えることに一理ありますね。
★フッサールやピアジェ、パパート、レズニックというのは、最初数学から着想を得ていますから、今回のオンライン学習というテクノロジーの起源を考えながら日々試行錯誤している教師にとっては大切な視点を共有共感できるでしょう。
★フッサールは、物事を認識する存在者は、主観で見続けるというより、ある精神的なカテゴリーとして定着している、あたかも客観的にあるものとして確立されたメガネでみている。つまり共同主観という発想をつくりました。しかし、そのメガネがゆがんでいるかどうかは、自分ではわからないわけで、わからないまま考えていくことに慣れている因習的なものの見方を学問の危機だと言っているのだと思います。
★でも、そのメガネは経験から構築されるわけです。経験は時空が規定しているというのです。そこはカントもいっしょうです。ニュートンもいっしょです。
★今回は、その時空がリアル時空とサイバー時空というハイブリッド時空になったわけです。そのときメガネが当然アップデートするわけです。しかし、それには、PBLのように、その知識や公理や技術が生成される起源に遡りメカニズムを掘り起こす必要があると。慣習化してあたり前になった知識を暗記するだけではなくて、それが生まれてきた過程のメカニズムを探索するのが危機を乗り越える学問の役割で、思索なのだというのでしょう。
★言語と数学の生成メカニズムは違うのかもしれませんが、生徒が学び方を学ぶというのは、こういう生成メカニズムの探索です。そしてそれがリベラルアーツとしての教養のミッションだったと思います。
★その生成メカニズムを知るには、そのメカニズムが因習化されていますから、そこをぶち破る深い根源的な問いの発見が必要ですが、それをいかに生み出すかという話がオンライン学習にチャレンジしている学校で生まれています。たとえば、聖学院や今度またご紹介するノートルダムグループですね。私たちの従来の存在をたらしめていたカテゴリーを創造的に破壊して、新しいカテゴリーが生まれる時代がやってきました。
★ただし、それが新カテゴリーとしてのメガネに定着するには長い年月がかかります。問い続けることが大事になってきます。その間にユートピアという危機の学びの路線に行くのか、デストピアという学びの危機の路線に行くのかは、予測不能です。にもかかわらず、予想して、構想して、デストピアに陥らないようにしたいという意志は重要です。人間は目的や前提がない自由がよいのだという考え方もあります。もしかしたら、新自由主義はこの考え方がベースかもしれません。マインドフルネスはどちらかというとハイデガー同様こちらを選びがちですね。GAFAの危機はここにあるわけですが。危機のGAFAを祈るばかりです。。。。
★ここにマインドフルネスのパラドクスがあるわけです。ユートピアを構想するには、学びの危機を危機の学びに転換する意志の力という目的志向性がフッサール同様私は必要だと感じています。この意志があることによるマインドフルネスを私は幸せな情況なのだと思っているわけです。
★フッサールなんて読んでも、その解決策は書いてないよとマニュアル主義者は言います。何を言っているのだと私は思います。解決策とは、根本的には、その人がどう生きるかです。フッサールは、自分が取り囲まれた耐えがたい仕打ちの中で、思索を止めなかったのです。その生き方こそ何にも得難い解決策です。そこは内村鑑三と共鳴共感共振するところですね。
| 固定リンク
« ポスト・コロナショック時代がもたらすコト(9)聖学院インパクトの本当の意味 人類の進化へ 妄想編 | トップページ | ポスト・コロナショック時代の私立学校(68)和洋九段女子のオンライン学習&オンライン学校説明会 新時代の学びの環境着々。 »
「創造的破壊」カテゴリの記事
- 本田由紀教授の短いメッセージにも日本の根本問題を暴く(2024.10.29)
- 日経ビジネス 禅と哲学 駒沢学園女子の教育がグローバルなわけ(2024.10.22)
- 2027年に向けて動く世界と私立中高一貫校(了)2050年以降の社会は、だれもが創造的才能者になる(2024.10.01)
- 2027年に向けて動く世界と私立中高一貫校(7)2050年以降の社会を創出する創造的才能者を生み出す教育(2024.10.01)
- 2027年に向けて動く世界と私立中高一貫校(6)いわゆる高偏差値学校の教育と筑駒湘白型教科教育(2024.10.01)
最近のコメント