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2020年2月26日 (水)

京都のノートルダム 動き出す(9)ノートルダム女学院中高の哲学カフェ 哲学と保健体育のジョイントの意味。

★ノートルダム女学院(「ND」と表記する場合もある)はカトリック学校であるから宗教という授業があるのは当然ですが、キリスト教神学のみを学ぶ場ではありません。もちろん聖書を学びますが、欧米の生活や文化、学問の土台となった倫理や思考様式、そしてもちろん、世界の宗教などIB(国際バカロレア)のTOK(Theory of Knowledge)でも取り扱われる部分をカバーしていると言った感じです。

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(<ND哲学カフェ>で生徒と対話する三井先生と山川先生の豊かな表情。<ND哲学カフェ>は、保険体育の三井先生と宗教の山川先生がコラボレーションしてデザインしています。)

★しかしながら、TOKはかなり専門的すぎるし、選ばれし生徒が受講できるプログラムになっています。それに対し<ND哲学カフェ(ノートルダム女学院の哲学カフェ)>は、グローバル市民として探究しているND生徒みんなが学べる哲学対話としてデザインされています。

★保健体育の三井先生と宗教の山川先生は、そんな哲学対話の場をコラボレーションして<ND哲学カフェ>としてデザインしていますが、三井先生は生徒1人ひとりが自分とは何か深めながら固定概念や先入観にとらわれることなく自らを開放し、広い視野で思考し判断しアクションを起こせる自己変容型能力を高めてもらいたいし、自らを開放/解放するには、他者に素直に頼れる自分がいてもよいのだということを互いに尊重し、受け入れられる関係をつくれるようにもなってもらいたいと語ります。

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(<ND哲学カフェ>終了後の振り返りを同僚の社会科の霜田先生といっしょに。霜田先生も哲学科出身で、自身の社会科のPBL授業に哲学対話的手法も活用しています。)

★山川先生は、宗教という科目のアプローチから、法というものが、歴史の流れの中で社会構造の変化が起こり、その中で人間は様々な困難に直面するわけですが、そうした時にどうやってそれを乗り越えるルールができあがってきたのか法の立体的な根本の生成の源泉まで想いを馳せらえるようにしたいと。別の言い方をすると、欧米の哲学教育の中で当たり前のように生徒が考える法と自分と自由の関係をNDの生徒にも考える視点をもってもらいたいと言います。

★もちろん、そこには、実定法、習慣法、自然法、新約という新法、旧約という旧法などのカトリック的なそして西洋の社会を支えてきた法の概念への教養も身に着けてもらいたいという想いもあるでしょう。NDの生徒がグローバル市民として社会で活躍していくときに、様々な葛藤に直面するでしょう。そのときには国内的な基準だけでは解決のつかないことがあると思います。

★そんなとき、法というものが客観的な制度としてあるものではなく、人間との関係、社会との関係、自然との関係、文化との関係、価値との関係、倫理との関係など多様な関係を調整し、自由を回復するロゴスだったということを知ることは、法の制度設計に自らも直接間接かかわることができることに気づけるでしょう。そのとき、法の根源に立ち還り、葛藤を解決する対話ができるのです。

★そんな深い先生方の深い考えが前提になって<ND哲学カフェ>が成り立っているのだという話を授業終了後の振り返りでお聞きして感動したと同時に、<ND哲学カフェ>をデザインする準備において、先生方も文献リサーチや自らも多様なセミナーやワークショップで探究している話も聞けました。本当に頭が下がります。

★そして、もしこのジョイントがなければ、生徒は保健体育で自分の成長という内面を深めていくことはできるでしょうし、宗教の時間に、法と自分と自由の関係を壮大な西洋史というパースペクティブの中で学ぶ教養を身に着けることができるでしょう。

★しかし、両教科が結びつくことによって、自己の内面の成長と法と自分と自由との関係がむずびつき、社会の中での自己成長と自己成長が社会を変える可能性を見出せるようになる相乗効果が生まれると気づきました。

★お二人の先生が<ND哲学カフェ>をデザインするときに様々な哲学者の文献もリサーチしていますが、その中の1人梶谷真司さん(東京大学大学院総合文化研究科教授)は、東洋経済ONLINE(2019年2月7日)の<哲学が「体育会系」の学問だと確信できる理由~知識取得ではなく自らの感覚変化こそ重要>という自身の記事の中でこう語っています。少し長いですが引用します。

「私はいつのころからか、自分がものを考えている時の身体感覚に敏感になった。思考が深まる時、広がる時、行き詰まる時、それぞれ特有の感覚がある。こっちに行ったほうがいいとか、この方向で考えても仕方ないとかいう予感まで何となく体で感じる。

以来私は、哲学は体育会系の学問だと思っている。すなわち、知的というより、身体的な活動であって、何をもって「哲学的」と言うのかは、スポーツと同じで、実際に自分で経験してみて、体で感じるしかないのだ。哲学対話をやるようになって、その確信はいっそう強まった。

哲学対話においては、他の人との位置関係、机の有無、相手との距離、さらには、自分や他の人の姿勢、息づかい、眼差し、表情も思考の質と連動している。だから、対話が哲学的になった瞬間は、感覚的に分かる。全身がざわつく感じ、ふっと体が軽くなった感じ、床が抜けて宙に浮いたような感覚、目の前が一瞬開けて体がのびやかになる解放感、などなど。

人によっても違うし、深まったのか広がったのか、思考の質的な違いもあるだろう。ずっしり重く感じる人もいれば、モヤモヤしたある種の不快感を覚える人もいるだろう。だがそれでも、どこかに気持ちよさがある。人それぞれかもしれないが、哲学対話には、やはり普段は味わえない特殊な感覚があるように思う。」

★保険体育の三井先生と宗教の山川先生の哲学対話のコラボレーションは、かくして必然的だったのです。

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