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2020年1月 5日 (日)

自由と市場と組織と国家(11)「主体的に学ぶ」行為の背景にある「生産と消費」が「創造と活用」にシフト。

★「主体的対話的で深い学び」の背景に横たわる配分と交換は、偏向的な配分から公正な配分に、偏向的な交換から公正な交換へと徐々にシフトしていますが、富裕層とそうでない層との格差が縮まるイメージがなかなかないために、実感が伴わないのは確かです。しかし、それはこの背景に横たわっている配分と交換の関係システムが変わりつつある分析をしている経済学と社会学の両理論が、強欲資本主義の分析、再帰的近代化の分析で止まっているからというのもあります。

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★おそらく、アダム・スミス、カント、ケインズ、フリードマン、ハイエック、ウェーバー、ジンメルなどの見識にしたがって、戦後20世紀社会システムまでの分析は丁寧に行てきたと思います。しかし、1980年代以降の現代思想が掘り起こした強欲資本主義やボードリヤールなどのポストモダン経済をどう分析し見通すかについては、その理論をアップデートする必要があったわけです。そこでもハーバーマスやローティが挑戦したし、決定的なのはアンソニー・ギデンズでした。

★20世紀末から21世紀初めにかけてブレア・クリントン時代が「第三の道」を模索しました。そのときのブレーンがギデンズです。ギデンズは戦後20世紀社会を脱封建社会を企てた産業革命以来続いた工業中心の近代の先鋭化したものとみなしつつも、1980年代以降の社会が今度はその近代を脱近代化する新しい近代社会が到来したと分析しました。そしてそれを「再帰的近代化」と呼んびました。

★ドイツでも、ウルリッヒ・ベックがリスク社会を提唱し、ギデンズ同様グローバリゼーションと個人化の新しい要素の出現を再帰的近代化という枠組みで提示し、新自由主義のメルケル首相と対峙してきました。「リスク社会」という再帰的近代化の捉え方が、世界中に浸透し、もしかしたら、再帰的近代化の理論もいっぱいあるでしょうが、ベックの考え方がより広まったかもしれません。

★しかしながら、ベックはドイツのメルケルのブレーンにはならなかったし、2015年に残念ながら他界しましたから、再帰的近代化の理論のアップデートはなされなかったのです。

★戦後20世紀社会である近代化は、大量消費・大量生産・大量移動を果たしましたが、それがローマクラブの「成長の限界」によって、限界が明らかになったわけです。そこで消費者やクライアントという抽象的な見方から、個人レベルにまで接近する再帰的近代化が生まれてくるわけです。ここには、グローバリゼーションとICTによって金融工学が新たに加わり、ますます個人化が広がっていきました。

★しかしながら、ベックが亡くなって以降の急激なSNSを中心とするWeb環境が、はやくも再帰的近代化という概念では収まり切れない社会を生み出していることに、社会学はもしかしたら追いついていないのかもしれません。

★ギデンズにしても、ブレア・クリントン時代の第三の道がとん挫してしまったわけですから、その後の分析がアップデートされているわけではありません。彼らの分析対象であったEUも今や混迷しています。

★しかし、これは近代化、ポスト近代、強欲資本主義、再帰的近代化などと一見すると近代社会の進化を表してきたかのようでしたが、実は、ICTの誕生によって、全く次元の違う近代化が起こっていることをしっかり見定めることができないのかもしれません。

★たしかに再帰的近代化や強欲資本主義、新自由主義には陰りが見えてきました。反動的な保護主義が各国に立ち上がっているのもその兆しでしょう。しかし、それがどのような方向に向かているのか捉えることがなかなかできません。

★そこで、このような事態は、リバタリアンの世界Lにとっては、混迷でも、新しい社会にとっては希望であるということなのだと見方をかえてみます。見方を変える眼鏡は、「生産と消費」を「創造と活用」という次元へのシフトととらえてみます。

★グローバリゼーションによって明らかになったグローバルイシューはSDGsによって無尽蔵に消費するのではなく循環する活用にシフトする動きを生み出しています。

★また、個人化は、顔の見えない消費者に大量生産による画一的な商品を押し付けるのではなく、個人に適合する商品をその都度創造する世界にシフトしていることも事実です。それが可能なのはICTやWebの進化が契機であることは間違いがありません。

★そしてこのICT、これからはAIと言った方がよいでしょうが、これがもたらす近代化から再帰的近代化までのパラダイムを大転換させることになるでしょう。

★不思議なことに、いや当然なのですが、上記の図のように「創造―生産」と「活用―消費」という軸を掛け合わせると、「公正な配分―偏向的なな配分」と「公正な市場と偏向的な市場」に重なります。

★創造も公正な配分も組織がそうするからできるのです。活用も公正な市場も組織がそれによって公正な利益を得られるからそうなるのですから、重なるのは当然です。

★歴史は突然変異はなかなかありません。前の歴史の中に希望があります。第三の道、つまり再帰的近代化の中で大切にされていた要素は「教育、教育、そして教育」だったのです。

★グローバリゼーションによって、ここを早くから注視した東南アジアの国々は、日本を追い落とす勢いになてきました。そして、ギデンズ、ベックがとらえられなかったIT産業の幾何級数的な大進化は、彼らの個人化の理念を現実のものにするでしょう。

★生産手段や消費のコントロールは一握りの巨大組織に牛耳られてきた近代化は、次の段階でいよいよ個人の力で創造と活用の新たな社会に転換されるでしょう。

★その起点は新しい学びの経験を創造し続ける教育です。そのとき今の学校制度であるかどうかはわかりませんが、制度は、現実が変わることでむしろ変わると考えた方が歴史の原理に即しています。

★配分と交換を教育によって公正にシフトすることはなかなか難しいですね。それはやはり政治や経済と社会学の領域かもしれません。しかし、教育が「創造と活用」という現場での新しい学びの経験を生み出すことは実は得意とするところでしょう。再帰的近代化はグローバル教育の準備をしました。そして彼らが畏れたリスク社会をマネジメントしているGAFAは、STEAMによって国家をも動かす個人化を完成するのでしょう。

★「創造と活用」という場を「主体的対話的で深い学び」で創ることは可能です。ユートピアンの世界Uは、脳内のバーチャルな出来事から実はリアルな場にも降りてくるのです。もちろん、最初は圧力はあるでしょう。しかし、そのときはバーチャルな世界で場を広げて、タイミングを見て、再びリアルな場に降りてくるでしょう。しばらく、その繰り返しが続くと思います。

★そして、このような新しい世界を分析しようという「哲学・文化人類学・建築学・考古学・芸術」の越境的な新しい学問が一方で生まれてもいるのです。日本では、まだ、一部の学者が紹介しているだけで、バーチャルの世界にもリアルの世界にも日本の社会には定着していません。欧米でも多くの研究者が生まれていますが、まだまだ定着はしていないでしょう。

★2020年始まったばかりだと考えてよいでしょう。この領域はまだ民間では手がつけられません。商品という物質化ができていないからです。霞を食って生きて行くことができるのは、仙人だけですが、その仙人がコミュニティをつくり世に降りてきたとき、新しい社会はできます。

★霞を食って生きて行くことができるというのは、もちろんメタファーです。それを可能にするのはAIとの共生に拠ります。この世界は労働から解放されて創造行為の中で生きて行くことができます。まさか?と思うでしょうね。それには循環社会を創造物の活用によって可能にする必要もあります。こんなことは私が考えるまでもなく、19世紀末から提唱する作家はたくさんいます。それを作品として読むだけではなく、新しい社会の企画案やアイデアの宝庫だと読み替えていくことはできるでしょう(笑み)。

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