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2020年1月19日 (日)

自由と市場と組織と国家(26)意味の強迫観念から解放される自由

★外延と内包の関係は、相互に入れ替わり、多様な内容があります。にもかかわらず、固定し、多様性を排し、一義的な方向に導く教育やビジネスや行政が行われる時、その一義性の獲得の優勝劣敗主義に陥ってしまいます。実際、そういう強迫観念が、教育を画一化し、ビジネスの低迷をもたらし、行政の実施に非公正をもたらしています。

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★森田真生さんの著書「数学の贈り物」の中に「意味」という章があります。そこで、数学というのは、意味がわからないから嫌いだとかわからないとかというケースがあることについて述べられています。「意味」がわからなければ、先に進めないと思うのは、まさに意味偏向主義、意味の強迫観念ですね。

★森田さんは、数学は、歴史の始まりにおいて、土木における測量や星の位置を測る実用的な意味があったと。しかし、計算などの操作という行為が意味を超えて、新たな意味が、数学的な操作という行為、幾何やグラフへの置き換え行為のあとで生まれることもあろうと。

★たとえば、-1×-1=1という操作行為が一体何を意味するのか?とりあえずないというのだ。でもそれは、上記のような分配法則の操作行為によって、証明されるのだと。

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★実は、人間が生きて行く基礎となる根っこの思想、つまり野生の思考というのは、記号という外延表現には、「意味」や「行為」や「言葉」や「情意」や「対象」など無限の要素が内包されています。

★そして、あるときは「言葉」と「記号」が入れ替わる時があります。そのとき「言葉」が外延的表現で「記号」は他の要素同様内包的な内容になります。

★しかし、いつのまにか、「言葉」の外延的表現が内包するものは「意味」だけになってしまうのです。ここから偏向主義や強迫観念が生まれます。科学主義によるレトリックの排除が工業化時代で起こったわけですね。

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★森田さんのように、「記号」という外延的表現が内包する内容が、はじめに「意味」ありきではなく、数学的置き換え操作(計算)行為から始まってもいいのです。

★これが多様性の本質だし、共感的コミュニケーションの本質です。同じ「意味」のみを共有することが共感的コミュニケーションなのではありません。それは全体主義に通じる偏向主義です。

★工業化時代の先鋭化した20世紀末社会は、「意味」の病に陥っている鬱屈する心が拡散しましたね。今もしています。自己肯定感が低いというのは、まさにこの状態です。

★数学的世界は、人間が生まれる以前から存在しているというところから出発し、主観と客観や自然と社会やモノとココロなど二元論的な意味の病いからいかに解放され得るのか、挑戦がなされています。

★昨日実施された最後のセンター入試の現代文の素材は、そのような新しい哲学的世界を提唱している河野哲也教授の「境界の現象学」から出題されていました。

★すでに10年くらい前に、河野さんの「意識は実在しない」というスリリングな著書から東大と早稲田大学が出題していました。20世紀末の大学入試で一世を風靡したポストモダンの現代思想の次の発想が出題されているということは、何か意味があるのかもしれませんが、その意味は、いわゆる後付けでしょう。初めにそういう意味があったわけではありません。

★もっとも、河野さんの子どものための哲学や哲学的対話のアクターネットワークであるプラットフォームはその10年くらい前から多様化し拡大しています。豊島岡女子でも河野さんは哲学的対話の授業を行ったり、私立学校の協会の各部会にも招かれたりしています。

★予測不能で不確実性の高いリスク社会において、生きて行くにはこんな基礎思考が必要です。STEAMのうちのA=アートやM=数学が示しているのはこういう20世紀社会=工業化時代の呪縛である意味の病いからの解放を意味していたのはないでしょうか。もっとも、このような意味付けもまた、STEAMという行為が学校現場から生まれてきたからできることなのですが。

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