自由と市場と組織と国家(25)スカパーCMの<外延と内包>の使い方
★昨年「第56回ギャラクシー賞」で、堺雅人、小池栄子、鈴木梨央が出演するテレビCM「スカパーJSAT 基本プランシリーズ『スカパー!堺議員シリーズ』」がCM部門の大賞を受賞しました。この一連のCMの中の「すごいシリーズ」もおもしろいです。
★わずか30秒で、おもしろさを喚起する仕組みは、わりと単純です。①何をみて3人は楽しんでいるのだろうという仕掛けと②3人が同じ番組という対象をみているにもかかわらず、好みの視点が違うという仕掛けです。
★もちろん、出演者のキャラクターも大事です。
★①は省略というレトリックです。②は「すごい」という外延的表現に対し、「歌がうまい」「イケメン」「のどぼとけ」という内包がそれぞれ違うという<外延と内包>の差異のレトリック。
★メディア市場の広報戦略として成功しているのでしょう。しかし、この成功が意味することは何でしょう。プロデューサ―と消費者の情報差があるということです。
★このレトリックの情報は、作成者側にとっては編集知として当たり前ですが、消費者はそこをあまり意識していないでしょう。
★広告のCMは、この編集知の情報の差異が購買力に影響するわけです。これは資本主義の市場システムの原型をつくったメディチ家の適正価格に内包する利益の正当化に相当するメカニズムです。
★もちろん、このスカパーのCMには何の問題もありません。編集知を持っている者と持たざる者がいるのは、テレビを持っていて見ている消費者という限定的な世界では、気づくか気づかないかは個々人の問題です。
★しかし、この外延と内包という関係は、ここで終わっているうちは確かに問題はあまりないのですが、大事なことは外延と内包が入れ替わるのが無限大だということなのです。ここを巧く使うと、機会均等という公平性の中で非対称性が知らぬ間にできあがっているのです。リベラルアーツの一教科である「修辞学」つまり「レトリック学」は、特に日本では、近代以降の科学主義によって排除されてきました。
★したがって、日本の大衆や消費者は、このリベラルアーツ格差が前提になってしまっているのです。クリティカルシンキングは、レトリック学が雄弁術としてキケロの時代に実学として継承されていたぐらいですから、レトリックのシステムを学ばなければ身につくのはなかなか難しいのです。
★欧米の高大接続段階では、レトリックはリベラルアーツや哲学という分野の中で学ぶチャンスがあります。日本の新学習指導要領はそこを明確にしているでしょうか?改訂学校教育法で、創造性を養うという条項が加えられましたが、現場でそれは進まないし、評価ができないとかいうことでスルーされがちです。
★しかし、それは現場の責任ではなく、学習指導要領がマイナーチェンジばかりで、リベラルアーツ的基盤をきちんと表明しないからですね。
★科学主義者はレトリックをエビデンスや検証ができないからというのですが、実は主義をとった真正の科学という学問は、レトリックを大いに活用しているという認識があるのです。分子や陽子のモデルや図を見たことがあると思いますが、あれはあくまでモデルです。モデルはメタファーです。
★新物質を生み出す化学反応そのものは、たしかにレトリックは関係ないのですが、その最初の発想はトポロジーという置換レトリックを活用するケースも少なくありません。日本の数学教育では、柔らかい幾何学であるトポロジーはそもそも排除されています。もっとも現代化カリキュラムでは取り扱われていたのですが。。。
★現代経済学は、数学的関数で置き換えますが、それを科学的だと称するわけですが、自然科学と違ってレトリック的な側面が強いので、最近批判されてもいます。というのも、この巧妙な置換レトリックが、実は<外延と内包>の置換によってなされたとき、その複雑系を見破れる人と見破れない人との間で非対称的な関係うを生み出すからです。
★その悲劇の典型的なケースが、リーマンショックに象徴される恐慌です。これは最近の話だけではなく、近代の進化の中でたびたび起こってきたし、今後も起こるわけです。おそらく起こるというより、わかっていて金融商品をプロデュースする一握りのエリートがいるのです。
★今も世界中で、リーマンショック再びが噂されています。クリティカルシンキングの残念なところは、それを見抜いただけでは、クリエイティブに解決できないという点です。
★創造的思考力を発動できないように学習指導要領がしているとしたら。。。しかし、文科省もそれはわかっています。だから「探究」という表現で「レトリック学」を現場が扱うことを期待しているのです。しかし、それを明言しないから、現場では結局取り扱わないのです。
★いわゆるダブルバインドですね。創造的思考をやりなさいと学校教育法では条文化している。しかし、やろうとすると武器がない。やりたくてもやれないというダブルバインドを解決するには、グレゴリー・ベイトソンではないですが、その枠組みをエーイとばかり捨てることです。
★バリ島の魔女ランダの物語は、インドネシアの(といってもこの国は多様なのでバリ島だけのことかもしれませんが)教育観のベースだとベイトソンは語ります。勉強しないでのびのびと遊びなさいと母親が言うから、遊ぶと、こんどは遊びすぎだから勉強しなさいと言う。勉強していると勉強しすぎよ、自然と戯れなさいと。じゃあ遊ぶと・・・というダブルバインド状態が続くのですが、子供ははやく自律して、そのダブルバインドの枠組みを乗り越えようとする成長物語が教育観です。
★日本は、このダブルマインドを自分で乗り越えるパワーを育てているでしょうか。就活スーツは着る必要はない。そうしたいが、結局スーツをみな着てしまう。そのダブルバインド状況の中で我慢して、そのはけ口を競争主義、優勝劣敗主義でガス抜きをする。負け組は自己肯定感の低下、鬱屈、病い、そして・・・。
★ここを脱するには、ブルームの3つのタキソノミー(認知・情意・精神運動)が役に立ちます。でも初等中等教育の学習指導要領では、ルーブリックという中立的表現でぼかします。現場では、タキソノミー?ハーあっということになります。ここにも<外延と内包>のレトリックで巧みに逃げられる道を用意するという戦略がとられています。
★医療教育や看護教育の領域では、この3つのタキソノミーが現場では意識され始めています。チーム医療とかコミュニケーションに力点が置かれているのはその証拠かもしれません。しかし、文科省は医療教育のコアカリキュラムのモデル(ある意味初等中等教育の学習指導要領に相当するものですが)の文書では、そのことをボカシています。チーム医療やコミュニケーションという外延表現は入っていますが、その内包分は大学や現場に任せると。そこは選択の自由、市場の原理ですよねということなのかもしれませんが、その選択判断が公正なものであるかどうかは誰がチェックするのでしょう。良識ということでしょうか?
★ここは、実は問題を生み出す盲点です。道徳教育の強化は、ここをシステム化するのではなく、心根で勝負しようというわけですね。なおさら3つのタキソノミーが必要です。でもそれは使う確率は低い。なんというダブルバインド!真の問題は、ほとんど人が気づかない盲点として微差異なところにちゃんとあります。クリティカルシンキングが発動するのはこの微差異であり、解決する創造的思考が必要なのはもはや言うまでもないでしょう。
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