自由と市場と組織と国家(06)「主体的対話的で深い学び」と「総合的な探究の時間」
★今回の学習指導要領改訂の大きなポイントは、「主体的対話的で深い学び」と「総合的な探究の時間」が設定されたことというのは言うまでもないでしょう。さらに、「授業形式はアクティブラーニング」が想定されていて、「自分とは何かを考えつつ」取り組んでいくという点が加えられています。
(文部科学省発行「高等学校学習指導要領」から)
★この「主体的対話的で深い学び」は、他教科や科目でも行わるのが前提です。よくわからないのが、英語や国語などの教科の授業と「古典探究」「理数探究」「世界史探究」などの新科目と「総合的な探究の時間」のいずれにも「主体的対話的で深い学び」で行われるにもかかわらず、「教科」「科目」「探究の時間」で行われる深い学びである「探究」はそれぞれ違うというのです。学習指導要領にはこうあります。
総合的な探究の時間については,これらの 科目において行われる探究との違いを踏まえる必要がある。具体的には,総合的な探究の時間で行われる探究は,基本的に以下の三つの点において 他教科・科目において行われる探究と異なっている。
一つは,この時間の学習の対象や領域は,特定の教科・科目等に留まらず,横断的・総 合的な点である。総合的な探究の時間は,実社会や実生活における複雑な文脈の中に存在 する事象を対象としている。
二つは,複数の教科・科目等における見方・考え方を総合的・統合的に働かせて探究す るという点である。他の探究が,他教科・科目における理解をより深めることを目的に行 われていることに対し,総合的な探究の時間では,実社会や実生活における複雑な文脈の 中に存在する問題を様々な角度から俯 ふ 瞰 かん して捉え,考えていく。
そして三つは,この時間における学習活動が,解決の道筋がすぐには明らかにならない 課題や,唯一の正解が存在しない課題に対して,最適解や納得解を見いだすことを重視し ているという点である。
★これは、逆に読めば、教科や科目は、横断的・総合的でなくてよいということですね。それでいて、教科や科目の中で探究をやれと。でも、深い学びは学習指導要領によると、知識の関係づけをしていって問題を発見し、創造したりするとあるわけです。創造するのに横断的でなくてよいということは考えにくいですね。
★教科や科目は複数の教科・科目などにおける見方や考え方を総合的・統合的に働かせて探究しなくてもよいというわけですね。しかも、実社会や実生活における文脈はいらないとも。そんな教科や科目は存在するかどうか疑問です。
★教科や科目は、正解の定まらない問題はやらなくてよいとも。知識・技能以外の学力の3要素、つまり資質・能力を重視せよと言っていながら、結局教科や科目は知識・技能でよいと。解せませんね。
★しかも、極めつけは、学習指導要領は次のように続くのです。
なお,実社会や実生活における課題を探究する総合的な探究の時間と,教科の系統の中 で行われる探究の両方が教育課程上にしっかりと位置付き,それぞれが充実することが豊かな教育課程の実現につながると考えられる。
★驚きです。資質・能力重視の学習指導要領が、結局「探究の時間」と「教科・科目」を完全に分割し、それぞれが充実すればよいのだと。そしていつのまにか、豊かな教育課程の実現が目的なのだと。本来探究は、関係主義で、要素還元主義ではないのですが、どうやら後者の考え方がここでははっきりしました。人間の資質・能力がだいじだといっていながら、真っ二つにわけて、合わせればよいという恐ろしいご都合主義です。
★ここに文科省自体、生徒を二つに分けるキャリアデザインを下地にしているのがわかります。20世紀社会に適応できる人材と未来型人材というわけです。21世紀社会は皆目わからないので、しばらくは20世紀社会は続く、だからそこで生きていける人材と未来を創る人材とに分けるというわけです。
★生徒全員が「探究の時間」「教科・科目」を受講するのだから、そんなことはないといわれるかもしれません。しかし、このような分け方だと、得意不得意がでてくるし、実際すべてが必修ではないのです。
★そもそも教科横断的とはどうやって果たせるのでしょうか?そこも実際には説明はないですね。
★なぜか?要素還元主義だからですね。
★というわけで、学習指導要領の中に、ちゃんと20世紀社会温存システムを盛り込んでいるわけです。これが、20世紀社会の組織のずる賢いところです。文科省はたぶん無意識でそうしたのでしょう。しかたがないことです。21世紀社会のイメージがないわけですから。官僚システムは空が灰色になってからミネルバのフクロウを飛翔させますから。まだ決まっていないことに挑戦するカリキュラムを盛り込めないのは当然です。
★いや「探究の時間」でそれをいれこんでいるではないかと言われるでしょう。ポーズですということでしょう。その決定的な意味は「主体的」に埋め込まれています。「探究」は「主体的」にできるものではないからです。エッ!と思うかもしれません。しかし、「主体性」にこそ20世紀社会の勝ち組負け組あるいは優勝劣敗思想が忍び込んでいるのです。
★しかし、本来「市場」は優勝劣敗の場ではありません。そこに参加する市民はみんなが幸せになる場だったはずです。エッ!とまた思うでしょう。比較優位の世界は経済学ではあたりまえではないかと。それも今まで紹介したように、近代国家形成時にできた「経済学」の話で、自然科学的な法則のお話ではありません。しかし、「学」となるとあたかも法則として正当化がなされるのです。
★というわけで、学習指導要領にあまりこだわらず、「探究」というのを「教科・科目」「探究の時間」に共通する概念として使うことが21世紀社会を開くことだということがうっすら見えてきましたね。
★まあ、わざわざ議論しなくても、うちはすでにそうやっているよという学校もあるでしょう。それはそれでよいのです。問題は意識しないとキャリアデザインを新たに二つに分けながら、勝ち組負け組の新しいグループ分けをつくるだけでになりますよということなのです。そして、結局20世紀社会は変わらないまま。それでは、世界がどんどん変わる中、≪Z世代≫は困ることになるでしょう。
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