自由と市場と組織と国家(07)「主体的」と「入試」と「Amazon」
★新学習指導要領の意味する「主体的な学び」のイメージはどんな感じでしょうか?この主体的に学んだ先に、現状の中学入試や高校入試、大学入試はうまく接続するのでしょうか?あるいは、今の社会にうまく接続するのでしょうか?あまりうまくいきそうにもないのは否めないのが現状ですね。
★溝上慎一教授が「溝上慎一の教育論」で、「主体的な学び」とアクティブラーニングとの関係をわかりやすく論じているところがありますが、そこで、主体と客体の関係を上の図のようにとらえ返しています。
★主体―客体という近代国家形成期の哲学的関係から、現代の社会学の知見を使って、行為主体者―客体という関係としてとらえ返しているわけです。近代哲学的感覚だと、主観的な個人が、自分の興味と関心に応じて対象に働きかけるということですが、実際にはそのような自分の興味と関心で対象に働きかけることは現実的ではないというということでしょう。
★Amazonでネットショップする時が典型的な例です。一見主観に応じて商品を購入しているようですが、実際にはAmazonの巧みな商品購入への心理学的な誘引システムに乗っかっています。それでも買いたいという意志はあるだろうと。いや、それもネットを開けば、あなたはこれが欲しいですよねというポップウインドやネット広告が検索エンジンやSNSの自動分析によって意欲を誘発しています。
★したがって、行為主体ではあるけれど、その意志はあたかもAmazonの代理機関のようなような役割を果たしているのです。それゆえ、行為主体=Agentなのでしょう。アイデンティティや自分の意志に従って行動を起こしているという幻想を払拭して、~したいから~するという因果関係ではなく、システムの網の目の中で自分が動かないと、このシステムが動かないという言う意味で働きかけるようになっているわけです。
★入試システムもAmazonほど詳細な情報の統合機能はありませんが、偏差値という優勝劣敗システムの中で、勝ち残るには、自分が動かなければならないのです。そこに自分の選択意志があるというのは幻想なのです。偏差値が高い順に選ぶというAmazonと同じランキングシステムに乗るわけです。でも、乗らなければ勝ち残れないのです。
★この強迫観念と自分の意志があるというのは実は幻想であるという「主体的な学び」が自己肯定感を低くするのは当然です。そこで、文科省は、それを承知の上で、歯止めをかける意味で「対話的な学び」と「深い学び」を加えたのです。「主体的な学び」を強迫観念と意志幻想から解放するために。大学入試改革もそれを目的にしているはずです。
★溝上教授は、それゆえトランジションというエージェンシーが作用する学びの場を埋め込むことで、それらから解放され、Well-beingな世界を生みだそうとしているのです。しかし、そこには私は行為者として私であるが、意志や感じ方、考え方は私のモノではないというAgent発想があるのです。
★エッ!と思うでしょう。近代哲学的にはそう思うはずです。本来の自分を回復するのが主体なのではないかと。いや、主体を構成する自分軸とか自分の意志にこだわるから強迫観念は生まれてくるので、そこから出発するのをやめてみようというのが、エージェンシーの考え方ですね。
★そこから出発すると、偏差値という一つの尺度にこだわる必要もなくなるのです。互いに私は私であって、私でもない他者でもある。それゆえ、その両方を統合するために代理人としてのAgentな行為者である私がいるわけです。ここまでメタ的な意味での「主体的な学び」となってしまうと、現状の入試システムにはうまく接続できないのも当然です。
★それゆえ、主体―客体の関係を重視しているという幻想が現実で、実はAgentな動きをしているというのは気づかないままにしておいた方が現状の入試もAmazonも都合がいいのですが、そこを開いてしまったのが溝上慎一教授です。この考えが広まれば、大学入試やAmazonも新たな展開をせざるを得なくなるでしょう。
★そんな中で、首都圏の中学入試は、新たな展開を開始しているわけです。溝上慎一教授の教育理論は、私立中学入試でまずは適応されはじめたということでしょう。
★私自身は、この中学入試の新たな展開に象徴される「主体性」については、「主体―客体」論でもなく、「エージェンシー」論でもありません。「新しい意志」論とでも言っておきましょうか。いずれ書きたいと思います。
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