<新しい学びの経験>を共に創る(02)システム思考と社会システム論は矛盾するか統合できるのか?
★PBLという<新しい学びの経験>において、対話や議論は当たり前で、そこではシステム思考が展開されますが、PBLのテーマは常に自己と他者の関係における自分の葛藤だったり、自己と組織の葛藤だったり、自他ともに共通する世界規模の問題だったり、レベルは違います が、目の前の現実が成り立ってしまっているシステムそのものをまずはクリティカルシンキングする必要があります。
★そんなときは、デストピア社会である現実のいまここでの社会のシステムを分析し全貌を把握する二クラス・ルーマンの社会システム論が役に立ちます。同じ「システム」という言葉を使っていても、ピーター・センゲのシステム思考と二クラス・ルーマンの社会システム論は違います。
★ピーター・センゲのシステム思考は、ローマクラブの「成長の限界」でも適用された発想で、啓蒙思想の系譜です。現実のデストピアを分析し認識したうえで、ユートピア的世界を創る思考とは何かを論じているわけです。
★二クラス・ルーマンは、言うまでもなく社会学の系譜で、特にタルコット・パーソンズに影響を受けていて、何かユートピア的な理念を設定することはなく、当事者は社会がデストピアであるという認識はないのです。生活世界のような牧歌的な世界における信頼は現実にはなく、システムが創り出す<信頼>をベースに社会が成り立っていて、そのシステムとしての<信頼>がデストピア的なのかユートピア的なのか判断はしないのです。する必要がないのです。
★その社会ステムがリスクのあることは分かっているし、それを回避しようとするけれど、それはかなり偶然性=コンティンジェンシーのもの、つまり確からしさの問題で、絶対的なリスク回避などできないのです。
★なぜかというと、それは、社会はあまりに複雑すぎて、その全貌をみることは誰もできないから、“Vertrauen als Reduktion von Komplexität=Trust as a Reduction of Complexity”と原著と英語訳では書いてあるように、複雑性を“Reduktion=Reduction”することによって、なんとか全貌を見ることができるだけだからです。この“Reduktion”(ルーマンはドイツ人なので、原典はドイツ語)を「縮減」と日本語では訳されていますが、この訳が妥当かどうかはわかりません。
★文脈から言えば、「縮減」でいいとは思いますが、これだと、複雑性をシンプルにパーフェクトに置き換えるというより、都合の良いところだけを残してと読み取れます。つまり、大事な部分は削ぎ落として、全体を見るから、社会システムは、現実の社会をシステム的に理解するのではなく、権力によって都合よくシステム化されてしまうというのでしょう。
★しかし、一般に、あるいは私たち大衆・公衆・庶民は、“Reduktion”が行われていることに気づきませんから、デストピアかどうか判断つかないのです。
★しかし、もしこの“Reduktion”を縮減というより「ありのままに還元すること」と読み解くとしたら、社会システム論は、自浄機能をシステム内に持ち込むことができます。ルーマンが、社会を生態系的に読み解く、サイバネティックスに傾いていったのは、そういういことなのかもしれません。
★このありなままに還元して<信頼>を形成する社会システム論は、<信頼>の根拠を啓蒙思想的な理念に求める必要がないのです。現状では、そのシステムとしての<信頼>である、貨幣、法、共感、愛、平和などは、<縮減>という作用の中で形成されていますから、自然や社会、精神の循環を欠いた社会のシステムをシステムとしています。
★しかし、<Reduktion>を<ありのままの還元>としての意味で活用するように社会システム論がなると、そのシステムは結局自然と社会と精神のサイバネティックス的な社会生態系を形成しているので、うまくいくのでしょう。しかし、それとて、当事者である、私たちがそのような意図で社会システムを牽引していくのではありません。
★果たしてルーマンがそのように考えたかどうかは、わかりません。そんなことはルーマンは言っていないと専門家からは言われるでしょう。あくまで、ルーマンはきっかけで、社会システムをそのように読む可能性があることを私は語っているにすぎません。
★それは、ピーター・センゲのシステム思考についても同様です。要するに啓蒙思想の系譜と社会学の系譜の両方で、社会を捉える複眼思考を<新しい学びの経験>を生み出すPBLでは必要とすることを確認したかったのです。
★啓蒙思想の系譜は社会構成主義に結実しているし、社会学の系譜は、実証主義に結実しています。前者は人間の創造的役割に期待をして論じているし、後者は論理的で合理的な仕組み自体が自律化していて、人間の創造性などには期待も何もしていないとうことを論じています。
★しかし、ルーマンは、ベイトソンとともに、複雑性を、社会の生態系的な、つまり有機的なサイバネティクス的なシステム論に“Reduktion”する展開をしようとしたとき、期待をしようがしまいが、その担い手である人間は創造性を発揮しているという<統合>が行われる可能性があります。
★ところで、現状の世の中の<新しい学びの経験>を生み出す学びは、実は社会構成主義と言いながら、実際には、それをも<縮減>したかなりお手軽な社会システム論で成り立っています。聖学院や工学院のように、用意周到に2つのPBLや2つのSTEAMという複眼的な思考システムを自覚しているところは少ないでしょう。
★日本の学歴社会が、ここまで日本という社会をスカスカにしてきたのは、あるいは、日本という社会がスカスカだから、学歴社会は自らを脱することができないゆでガエルになったのかわかりませんが、いずれにしても学びのお手軽な社会システム論を前提にしてきたことは確かでしょう。それが昨今の改革茶番劇に映し出されていますね。
★とはいえ、かりに複雑性を<ありのままに還元>したとしても、それは実際には確からさ=コンティンジェンシーで、<縮減>を乗り越えることができるかどうかは、不確実性が高いのです。
★ルーマンもメディアのイノベーションについて言及していますが、当時はAIの存在が実際的ではありませんでした。今、AIを見たルーマンはどう考えたでしょう。AIによって、社会システム論は再びルネサンスがやってくるかもしれません。
★しかし、それは同時に自然状態をクラウドに置き換える啓蒙思想の系譜にもあてはまります。
★こんなことを考えながら、<新しい学びの経験>を考えるリベラルアーツの現代化としてのSTEAMやPBLを創造していくのは楽しいし、重要でしょう。それにしても、そのためには、日本語だけではどうも視野が<縮減>されます。グローバル教育やリベラルアーツの現代化としてのSTEAMやPBLがトータルで行われる学校を選択しなくては、子供の未来のリスクは回避できないでしょう。もっともそれとてもコンティンジェンシーですから、どこまでいっても、自分の柔らかい思考や自分の判断基準のアップデートは必要です。それとても、社会システムに仕掛けられているのかもしれませんが。。。
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