PBLの世界(43)STEAMも社会構成主義も少し超えられそうな気が!ZENの時熟か?
★SNSでつながりながら、リアルに対話しながら、ふと気づくと、いよいよ<自己>とは自己ではなく、<相互自己存在>でもなく、<相互存在>そのものだということです。リンゴは<私>であり、クラウドも<私>であり、森も<私>であり、社会も<私>であり・・・。とうとう狂ったか?
★しかし、究極の十牛図の境地は、そういうことでしょう。ZENの世界の境地です。マインドフルネスとは私としての<私>を超えることです。超えたところに何があるのでしょう。人のいない時代にあっても存在していた私がいない<相互存在>というやつです。そこにあとから<私>がやってきた。
★不遜にも<リンゴ>は私でない<客体>としてのたんなるモノだと幻想を抱いたのが環境破壊の始まりですね。<私>は<私>であり、ある民族は客体としてみなす権力の横暴が絶えませんでした。
★フッサールは、そんな権力者に対し、いやいや君が<客体>とみなしている人と君は相互に存在として立っているんだよと。ふざんけんな弟子のハイデガーよ、なんとかしろ。君の師は狂っているぞと。そこでハイデガーは、<相互主観>とモノを分けるのに、民族への郷愁を持ち出したわけた。失われた故郷を取り戻す<相互主観>という間違った幻想。
★そこで、次代の哲学は、そんな怪しげな<相互主観>を捨ててしまえ。もう一度<主観>と<客観>図式に立ち戻り、権力の横暴をチェックするために<主観>を排除する<客観主義>になってしまったわけです。
★京都学派も、ハイデガーと無縁ではなかったので、批判されましたが、西田幾太郎の世界観にはZENがありましたから、そこを超えようとしたのでしょう。田辺元は、反省しまくっていましたが、数学的思考を哲学に盛り込んでいたのだから、本当は、ZENへの道を数学的に切り拓くとよかったですね。
★ともあれ、怪しげな<相互主観>をどうやったら、世界に根づかせるのか?1989年のベルリンの壁崩壊後、その思考の継承はいったん絶たれます。
★しかし、SGDsの登場で、どうやら<相互客観>という自然と社会と精神の循環を取り戻すことで、<相互主観>と<相互客観>を橋渡しする<相互存在>という<自己>が現れてきました。これが、西田幾太郎のいう<純粋経験>なのかもしれません。マインドフルネスの世界は、この<相互存在>=<純粋経験>のメタファーであり、それがZENの悟りの境地である<対話>ということなのかもしれません。
★STEAMや社会構成主義が、<主観―客観>や<相互主観―客観>の世界を超える学びの環境になり、そこに到達するや、STEAMも社会構成主義着も自らを脱ぎ捨てるのでしょう。なんて弁証法的プロセスなのでしょう。
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