★日本語IB校200校目指してという文科省が旗を振って、もう137校(必ずしも日本語ではないが)が誕生したと言われています。しかしながら、DPを受講している人数は、各校20人前後。他の生徒はIBのエッセンスを学ぶということになっている可能性が高いわけです。
★また、新学習指導要領の中で「探究」というキーワードが随所に出てきます。おそらくIBのDPのプログラムモデルをなぞって、イメージして、上記のような絵を描いている方が多いでしょう。やたら「教科横断型」という言葉を使う方が多いところからもわかります。
★しかしながら、実際にはIBのようにコアカリキュラムの領域が他の教科と結合しているようには、新学習指導要領では有機的に結びつくことは難しいでしょう。標榜することはできますが、現実はバラバラです。なぜなら、IBのように結合するシステムが考案されていないからです。システムなき精神主義。教科横断でなければならないという道徳主義で実効性が薄いわけです。
★探究は、IBのEE(課題論文)とCAS(創造性・活動・奉仕)の部分は行うことができます。すでにそのようなカリキュラムになっているところも多いでしょう。しかしながら、TOK(知の理論)に相当する学びの経験を用意していません。これこそ、有機的に結びつけるシステムの1つです。
★もう1つあります。それは「10の学習者像」です。日本の学習指導要領にこのような考え方があったとしても、あくまで最終的なゴールや理念という位置づけになるでしょう。
★しかし、IBの場合、TOKでもEEでもCASでも教科でも、どの学びの中にどのように10の学習者像が生きているのかそのつどリフレクションされます。
★いまここで学んでいることがどんな人間存在として成長しているのかリフレクションしていくわけです。決して大学に合格するためのテクニックや思考力をトレーニングするわけではありません。TOKと人間存在なのです。それが根源システムです。
★日本の学習指導要領で、そんなリフレクションはまずないでしょう。せいぜい単元や授業の知識の目標が達成されたかどうかのリフレクションで、そこに人間存在を意識することはないでしょう。
★IBでなくても、TOKや10の学習者像に相当するものは欧米の各国の教育の中にはあります。それはクリティカルシンキングと哲学授業です。
★TOKを行わなくてもクリティカルシンキングを入れればそして10の学習者像がなくても、哲学授業があれば、日本の学習指導要領の欠陥を補うことができるでしょう。
★今は、これがないから、思考力ってなんだとか、AO入試や志望理由書を書くにあたって、その前提の構えがなっていないとかいう議論になります。クリティカルシンキングと哲学なんて嫌いだという先生もいっぱいいますね。その場合は、数学的思考を持ち込みます。これは実にシンプルで、強力です。
★この大学入試改革の混乱は、多くの関係者が、クリティカルシンキングや哲学的な素養を持っていないか、数学的思考を決定的にもっていないかどちらかですね。
★だから、フェルミ推定ができずに、いつも現場主義です。現場が困っているからどうしてくれるんだというのは道徳です。倫理ではありません。正義でもありません。
★高校生が真剣に考えない読解力がない自己肯定感が低い、モチベーションが低いと嘆く方も多いですね。自分の小さな理念つまり道徳に合わしてくれないからと嘆いているだけです。
★そもそも大学受験システムそのものが間違っているのですよ。それに合わせること自体辛いですよね。でも社会がそう簡単に変わらないのだから、その中でどうサバイブし、機会を見つけて変えていこうとするのか共に考えていくのが倫理です。
★しかしながら、TOK的視点や10の学習者像のアプローチがなくても、クリティカルシンキングの素養や哲学的素養がなくても、まして数学的思考力がなくても、なんとかできる方法があります。
★それは、教育や学びの基礎である「経験」を記号論的に授業の中に組み込む手法です。多くの人がいやがる枠やフレームやテンプレートですが、記号論的「経験」というフレームはなぜかあまり抵抗感がありません。
★フレームや枠やテンプレートのない思考力や想像力がお化けのように存在していると信じる現場の先生は意外といます。だから、枠組みやフレームやテンプレートは思考力の自由を奪うみたいなあるいはT型フォードのようにベルトコンベアに乗せて物をつくるような間違ったメタファーを使いがちです。
★肉体がなくなっても魂は存在するのだという宗教的というか道徳的発想ですね。
★しかしながら、なぜか活動と思考は一体化ととらえることは疑問がないようです。
★であれば、この記号論的「経験」を活用しようではありませんか。この記号論的「経験」の表現方法の1つが井庭教授の「パターンランゲージ」という記号論的「経験」手法があります。
★それ以外にハーバード大学の「アクティビティタイプ」です。この記号論的「経験」は、U理論やEQ、そしてMIなどの認知的能力非認知的能力全体と親和性が高いものです。
★もちろん、教育学的にも心理学的にも社会学的にも文化人類学的にも哲学的にも言語学的にもかなり深いものがありますが、デューイ的発想ではないですが、記号論的「経験」という道具を使っているうちに自然にそこに新たな世界や思考が生まれてくるのです。システムこそ世界であり思考であるというのはそういう意味ですね。
★デバイスという道具をZ世代が、深い理屈を知らなくても、使っているうちにいろいろなアイデアや発想、思考を生みだしていくのと基本は同構造なのです。これは東洋思想のタオや岡倉天心の茶の道に通じる発想です。
★東洋思想なんて?と欧米の教育をモデルにしている経産省や文科省は思うでしょう。しかし、ヨーロッパ啓蒙思想は儒学にそもそも影響を受けています。思考とは壮大な歴史的遺伝子を継承しています。遺伝子はフレームがなければサバイブできません。
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