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2019年8月10日 (土)

PBLの世界(13)中学入試は、留学生受け入れ政策とコンピュータ進化と国際経済の変動の三つ巴の象徴①

★2020年の大学入試改革とそれに伴う学習指導要領改訂、そして2020東京パラリンピック・オリンピックは、1980年代から大きく変わる社会変動の流れの第1到達点である可能性がある。そして、その1980年代から急激に拡大する中学入試は、社会変動の象徴である可能性もある。

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★1980年代≪から≫ということを、もう一度思い巡らしてみようと思ったのは、昨日紹介した小熊英二氏の著者を斜め読みしたことがきっかけ。明治以来積み上げられてきた堅固で改革をよせつけない日本の社会のしくみが、1980年代から変わり始めたという指摘を眼にしたからだ。妙なところで、私の感覚と一致を見たので、ちょうど世の中お盆休みになり、しばらくデスクワークが続くから、その合間に整理してみようかと。整理といってもざっくりだし、1980年代から僕自身の人生も変わったので、学問的整理ではなく、経験的整理にすぎない。

★僕自身は、1980年前までは、この学歴社会が象徴する官僚や企業ピラミッド型社会の中で、椅子取りゲームを楽しんで生きてきた。というより、楽しまないとサバイブできなかった。高度経済成長期に小学生時代を送ったから、北海道、東京、兵庫県、再び北海道と企業戦士のおやじの転勤ごとに転校した。小学生ながら、内地と外地の格差意識を押し付けられ、今思えばいじめに何度もあったと思うが、野球というクラスを超えたチームに入っていたから、クラス内のいじめはクラス外の友人によって撃破され、サバイブしていたと思う。

★小学校高学園から中学までは、釧路で感性豊かな環境を謳歌したが、東京―兵庫県からやってきた賢いヤツと神童扱いで、おやじの仕事も釧路の産業界でも幅を利かしていた時期だから、もともと僕は道産子なんだといってもとりあってもらえず、生徒会長をさせられたり、できたばかりの教育大附属中学に受験することを勧められたりした。相変わらずデブだったので、鼓笛隊で大太鼓をもたされて、釧路の祭りのたびに練り歩かされた。

★いやがることもなく、楽しむことにしていたが、とにかく脱出したいという想いがつよく、幸い中学は高校で札幌で過ごせる見識をもった先生方がたくさんいて助かった。

★1970年代半ばは、かくして札幌で下宿生活を大いに楽しんだ。学生運動の名残もあったし、下宿では娯楽といえば読書とラジオと国家論や哲学を交わす先輩たちに部屋は占拠されていた。

★北海道に残るなら医者か東京に出て東大かという先輩ばかりであったが、今思えば中公の思想全集かブルーバックスを読み漁っている教養人でもあった。本間は企業戦士の息子で、そこから脱却して自分とは何かをもっと考えて行動しないとダメだ。現体制の擁護論ばかりではないかと、今思えば洗脳?だったのかもしれないが、そんな彼らは立派に医者をやっているし、東大を出た先輩は大企業の研究員になっている。

★1970年代後半から1980年代前半までは、東京で寮生活や一人暮らし。そこでは、やがてカトリックの神父になる友人と多くのカトリック学校出身の友人と出遭い、なぜか自由闊達な神父と出遭い、トマス・アクイナスやヘーゲルの洗礼を受けた。

★大学・大学院では、市民社会法の教授と法哲学の助教授と出遭い、世界思想と法制度、法思想の影響を受けた。

★ときは現代思想全盛時代で、法哲学の助教授は廣松渉シューレだったし、なぜか自分が属している学部でないが隣の哲学棟によく遊びに行っていた。生松敬三、丸山圭三郎は、まだ健在だったし、木田元の弟子たちとはよく飲んだ。そんなわけだから、ルソー、ヘーゲル、マルクス、ウェーバー、ソシュール、ハイデッガー、レヴィ・ストロースの議論は日々盛り上げっていた。

★そんな中で、なんでトマス・アクィナスなんて古臭い神学をやるんだといつも突き付けられ、答えるのに苦労したが、当時東大の大学院だった友人が労働経済をやっていて、正義論から交換経済への移行期の研究をしていて、中世の都市経済にすでに、その根っこの理論を形成したトマス・アクイナスの僕の修士論文を読んで、結構凄い発見だと思うよと元気づけてくれた。彼は後に横浜国大の教授になり、最初の著作に未公開論文として僕の修士論文も引用してくれた。学者の道を続けろとエールを起こってもらったが、それにはまったく応えられなかった。

★その中世の都市に資本主義の萌芽が在るかもしれないという発想自体は、シュンペーターとマルク・ブロックに影響を受けた。当時大学院には法哲学というカテゴリーはなく、法哲学の先生がまだ助教授だったこともあり、民事法の法制史の教授に師事したわけだが、歴史と哲学では相容れないところが多く、アナール学派は、受け入れられず、葛藤もあった。

★まして、現代思想はまったく受け入れられなかった。なんで自然法論と現代思想とが親和性があるのかと。またその教授の弟子たちは、だいたい自然法なんて存在しないだろう。神がいないんだから自然法もないだろうと、議論ができなかった。

★説得できるだけの理論を持ちえなかったし、何せラテン語とギリシア語とフランス語とドイツ語を自在につかわなくてはならない学問領域がゆえに、こりゃ無理だと修士論文を書いて外に出た。教授にも、テーマが広すぎるし、おまえの思想なんて100年早いと言われ、ますます学者として無理だなと。

★しかしながら、今思えば、こんな雰囲気から脱出したいと思っていた個人的な経験は、ちゃんと時代の精神に影響を受けていたミーハーな僕だったわけである。つまり、組織論がピラミッド型で抑圧的なシステムが批判され、ゆらぎはじめた時代で、そのゆらぎの先に魅了されていた僕だった。

★そして、同時におやじの会社も右肩下がりになりM&Aの憂き目にあい、おやじは社内ベンチャーで隆々としていたが、子会社のガス爆発事故の責任をとって辞めた。株を全部本社に売り、当時としては高額の退職金をもらって、悠々自適の生活を送るはずだったが、よせばよいのに、バブル突入時期だったので、株に手を出し、あっというまに紙くずになった。

★かくして、僕もおやじも野に放たれた1980年代なのである。しかし、なぜか北海道は生け花全盛で、大師匠のおふくろは飛ぶ鳥を落とす勢い。イタリアにドイツにと、札幌市の国際交流で活躍したり、なぜか自衛隊に招聘されて、米国の部隊と日本文化交流で生け花のワークショップを行ったり、札幌のグローバルスーパーマーケットの福利厚生のために生け花を教えるなどしていた。

★おやじは、自分はスッカラカンだったが、おふくろはいい迷惑だっただろうが、プロデューサ―然として運転手もやりながら全国をついてまわった。大学時代バスケット部のキャプテンだったということで(それを知ったのもそのときはじめてだったが)、当時の部員たちが集まっては飲めや歌えで、東南アジアツアーにも飛び回り、最後は肝臓がんで大往生だった。企業戦士が、社内ベンチャーを経て、フリーターになり、仕事などまったく考えず、飲めや歌えで、病院でもわがままし放題で、友人たちにみとられて大往生。葬式は静かにやるつもだったが、社内ベンチャー時代のスタッフがおしかけてきた。実は本社リストラ社員をひきとってベンチャー企業をやったというのが真相だったという。

★なんと、1980年代は、僕自身やおやじの生活そのものが、社会変動の渦にちゃんと巻きこまれていて、その渦に飲み込まれるか、飲みこまれないように脱出をいかにするか考え行動するかという選択の時代にいたのである。

★そして、僕自身は、大学院時代にバイトをしていた小さな塾を辞めて、しばし何もせず、廣松渉の著作を読み漁り、ある程度開眼するまで働かない宣言をして、部屋に閉じこもった。その小さな塾でおこっていたことは、町田エリアで頻発していた校内暴力や学校の荒廃で、塾に助けを求めてきた生徒たちとの交流だった。塾の中でもそういう生徒を抑圧する経営陣と僕は生徒との狭間にたって葛藤したが、担当した生徒がなんとか卒業したのを見届けて辞めた。

★結婚して一年目の美術教師の妻は、しかたがないねえと。生まれたばかりの娘は、そんなことは知る由もなく、安心してよく泣き、よく乳をのみ、夜はぐっする眠っていた。金じゃない、思想なんだと青臭いことをいって、妻を呆れさせていた日々だったが、その後中学入試の風を思い切りつくった中学受験専門塾に入ることになる。

★要素還元主義から関係総体主義へという輪郭がみえたところで、さすがにそうはいっても稼がなければと。最初は、講師をやりながら有り余る自由な時間を自己沈潜する予定だったが、偶然にも職員にならないかと声をかけられ、その理由がまったく新しいカリキュラムを開発することとホストコンオピュータと模擬試験を関係させて新しい評価システムをつくるのに、力を貸さないかと言われたからだ。

★法哲学の主流は実は当時は言語で、自然言語と人工言語の関係とトポス論がはやっていたということもあり、コンピュータを活用して新しいシステム=ルール(トポスう)を創るというのは興味深かった。塾のイメージがまったく違って見えた。

★中学入試にお金が流れ込む時代だったわけだが、バブル期に富裕層や新興富裕層が子どものための投資先となったのが、1980年代である。この新興富裕層・準富裕層の存在こそが、1980年代の社会変動のプレイヤーだったわけである。もちろん、この新興富裕層・準富裕層の消費活動を支える層もまだまだ活躍していた時代であり、かれらは伝統的な中学選びを支えるプレイヤーだったのである。

★当時は、そんな意識はせずに、とにかく今までにない仕事を創りたいという一心だった。しかし、どうやら1980年代は、社会変動の兆しが身の回りに現れていた時代だったのであろう。

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