対話
★今日もそうだったが、このところ、先生方や生徒と(もちろん妻や娘とも)すてきな対話が生まれる瞬間が多く、驚きを感じる日々である。問答講義は対話とはいわないから、何とか授業の中で、ワークショップの中で、実は普段の生活の中で対話ができないかと対話している。
★その対話の始まりは、本間さん「これ」どう思いますかから始まったり、逆に私から「これ」についてちょっと教えてくれますかから始まることことが多い。
★しかし、このような対話が始まるまでのスカフォルディング(足場づくり)は結構時間がかかる。「これ」は、実は共有されているからこそ、どう思うかと聞かれたり聞けたりする。傾聴とよくいわれるけれど、それは「これ」探しである。驚くのは。私は、半分仕事で半分なんだろう?たぶん探究なのだろうが、先生方や生徒の「これ」を見つけたときは感動するし嬉しいけれど、本間さんの「これ」を提示されるのは、思ってもいない僥倖である。
★「これ」は自分事であると同時に分かち合うコトが広がりや深みを増すことで、実は「自分事」ではなく「共有事」だったのである。どんなに話をしても、「共有事」にならない「自分事」は、「これ」にならない。
★問答講義やそのバージョンに過ぎない話し合いは、どちらか優位に立っている側の「自分事」に振り回される。対話は開かれない。
★それによくSDGsの問題など、自分事になっていないから、それを自分事にするワークショップとかあるが、なかなか「自分事」に世界の問題をできない。だって、ほとんどが、SDGsに反するような環境をつくって、ワークショップをやっても、参加している側は、なんだかなあと「自分事」から遠のく要素の方が多い。
★ビジョンを共有しようといっても、そう簡単ではない。でもだからこそ、「にもかかわらず」なのだ。「にもかかわらず自分事やビジョン共有なのだ」そこを互いに了解し、お互い助か合いたいけれど、それができない。そこが悔しい、スマナイと思ったッところから、対話は始まるのかもしれない。もちろん、明快にそこはわからない。ただ、瞬間の了解とでもいおうか。
★私は、感謝しなければならないのは、妻にも娘にも、そのことを指摘され、そこから対話できるようになったし、今でも盟友だけれど、それが続いているのは、ストラスブールでプログラムを運営している時に、君と話し合っても、こちらの想いとはすれ違いだと。エッ、同じだと思っていたが、またその友人よりもずっと長い盟友で、今も仕事をいっしょにしているが、3月にデジャブとおもえるようなまったく同じことを言われた。二人は冷静にではなく、少し怒りも込めていた。これはきっと同じ心的構造なのだろう。
★もちろん、彼らとは今も対話している(と妄想しているだけかもしれない)が、「これ」をその都度探すのは、結構楽しい。しかし、そう簡単に「これ」は現れない。「これ」は相当気分屋である。求めている時は出てきてくれないことが多い。だから、いつもサプライズということになる。
★昨日も今日も先生方ありがとう。そして今日会った高3生、ありがとう。
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