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2019年6月21日 (金)

希望の国のエクソダスの時代?(1)

★21世紀前夜、村上龍さんの「希望の国のエクソダス」が世に出て、衝撃的だったのを記憶している。最近出遭う中高生の中には、ポンちゃんに似た心性の人物がいて、おっ!これはと思う。もちろん、ポンちゃんのようにエクソダスを試みるというより、大人の世界と中高生の世界のこれまでの格差やギャップをフラット化し、新しいバランスを生みだそうという戦略上の違いはある。

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★しかし、そのギャップに何か課題を感じ、解決しようというアクションをしているところは、同じ心性だろう。このような中高生の存在の実態は、データ上はわからない。しかし、実態はかなりの人数がいるのではないか。

★大学入試改革や学習指導要領の改訂は、ここを無視している可能性がある。ときどき注目されるが、それはむしろレアケースで凄いという発信の仕方によって、このような事態は当たり前ではなく、特別なのだという幻想を蔓延させている可能性がある。

★あらゆる、日本の課題山積の事態を、この希望の国のエクソダスの側からみたら、まったく旧態依然としたやはり中高生がエクソダスしたくなるような課題解決策だらけということはあるのではないだろうか。

★しかし、どうしてこういう中高生のダイナミックな動きの兆しが生まれてきたのだろう。グローバリゼーションやネオリベラリズム、ポピュリズム、再帰的近代化、社会の個人化、シリコンバレー化などの複雑な矛盾だらけのシステム融合が、生み出したものであろうことは、たぶん誰でもわかるだろうが、その新しい生成は、どのような考え方で捉え直せばよいのだろうか。

★この方法論は、現状の社会学や政治経済学、国際関係学、情報科学、心理学、哲学、教育学などではとらえられない動きである。ここをどうとらえるか、その足場や立ち位置はどこにあるのか?

★誰と議論すればよいのか?おそらく中高生と対話する以外にないのだろう。大人や教育評論家からみた教育論はすべて役に立たないと捨てたほうが良いだろう。極端かもしれないが、その仮説から出発するしか突破口は出現してくれないような気がする昨今である。

★なお、このエッセイは、そういうわけで、特定の誰かに語りかけているものではない。新しい何かを求めて自分の想いをメモとして書き込んでいるだけである。

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