★私の高校時代は、当時は憧れの下宿生活だった。大学時代も寮生活をしていたし、とにかく「自由」を謳歌していた。しかし、お金はなかったし、アルバイトも今のように多様でなかったから、ラジオとレコードと本と下宿の仲間との議論がたいがいの楽しみだった。部活はほどほどで、硬派ではなかった。あと、よく友人たちが泊まりに来ていた。何せ歩いて5分くらいのところに学校はあったし、中島公園やすすきのに歩いて行けたし、路面電車でも地下鉄でもすぐに中心街にいけたから。
★そうはいっても、結構スリリングな時代で、小学校後半から中学時代には大学紛争が全国に飛び火ていたし、同時に高校紛争もその影響をうけていた。私が高校に入学した時、下火になっていたが、そのおかげもあってか、制服自由化時代にはいっていた。それでも、学生運動はときどき教室を襲って、集会もあった。
★だから、自ずと、下宿の夜は、議論になった。資本論を読んでいる先輩もいたし、アインシュタインの相対性理論やそれに対峙する量子力学と国家を結び付けて語っている先輩もいて、当然彼らはぶつかりあった。私は、高度経済成長期の影響を受けた24時間働けますかというサラリーマン家庭に生まれ、勝ち抜くために学歴を身につけよと幼い時からいいまくられていたから、親からの解放を意味する下宿生活は単純にうれしかった。
★ただ、そんな家庭なのだが、なぜか芥川龍之介全集がひっそりと書棚の片隅にあった。中学時代の日曜日の朝は、たいてい芥川龍之介の本を読んで、何か毒をくらっているようだった。怖いもの見たさというか。
★だから、下宿でのそんな議論も、意外と楽しんで参戦できた。青春と言えば青春だけれど、時代の背景に大きな世界の影があって、それに気づかずに、立ち向かって24時間飛び回っている父親の後ろすがたをみて、少なくとも、この道を選ぶことは、芥川龍之介を読むたびに、ないなあと思っていた。
★芥川龍之介の「侏儒の言葉」は、そういう意味では、資本主義の道も社会主義の道もとらず、第三の道はないか模索する自分を形成した。下宿の中との話は、社会主義に偏るか科学主義に偏るかだった。そのどちらにも、与することができなかったというのも、自分を形成するのに影響をしただろう。もちろん、芥川龍之介自身が、それを模索して、見いだせず、おそらく自殺の道を選んだということが、衝撃的なわけで、自分は芥川とは違って、第三の道を創り出す使命を抱くことになった。
★芥川から学んだことは、見方を変えるというコトだ。だから芥川自身の見方もそのまま受け入れることはしないという見方を学んでしまったのだろう。斜めから考えてしまう習性がそのときついたのかもしれない。
★それでも、自分の今でいうキャリアデザインは、2転3転した。両親の強い意向は、芥川龍之介的には受け入れるうわけにはいかなかった。北海道という地は、仕事が少ない。医者になるか役人になるか銀行マンになるかしか、当時は、いわゆる立身出世はできない。両親もそういう当時の常識をまとい、私の人生に介入した。
★私としては、当時理系のクラスにいたが、いわゆる転向組になろうとしていたから、担任の先生も両親もこぞってどうしてだと問いただしたが、文学部にいこうと思っていると、哲学科にと言うと、両親、特に父親は、下宿させたのが間違いだった。危険思想にかぶれてしまったと嘆き、落胆し、下宿の費用を出さないと迫って来た。
★それは、節約しながら毎月レコードを買うお金がなくなるから、困ると思い、少し考えさせてほしいとなだめ、危険思想ではなく、むしろそういう思想を撃破したいと。社会主義なんて頭から考えていないし、かといって、おやじのように資本主義のシステムの中ではたいへんだろうから、そこをなんとかしたいだけだよと。ああ、じゃあ小説家とかではなくて、ジャーナリストとかなのかと。
★いやいや、もうちょっと考えさせてと。しかし、おやじは後に本社から飛び出して会社を起こした。プロパンガスや液体水素を扱うのが本社だったが、高度経済成長期だったから、その周辺商品もつくって販売。北海道から東京、東京から関西、関西から釧路と転勤した。その都度学校は転校。それで、高校は下宿をしたいということになったわけだ。
★そのおやじは、考えてみれば理系出身で、アイデアマンだったのだろう、当時としてはユニットバスや冷凍食品を販売する会社は早すぎたかもしれない。最後は、北海道は都市ガスインフラでは回らないから、プロパンガスを販売するインフラ子会社にいきついた。雪がふると、プロパンガスボンベイが埋まって、メータがみえにくくなる。気づかないうちにガスがなくなると大変なことになる。
★そこで、今考えてみればどんなコンピュータで計算していたのか分からないが、各家庭の消費量を計算して、ガスがなくなる直前に自動的に交換するシステムをつくって、販路を拡大した。しかし、旭川の支社がプロパンガス爆発を起こし、責任をとって会社を辞めた。早期退職で、本社に株を売り、悠々自適にと能天気にくらしていたが、バブルが崩壊し、退職金はすべて株に消え、自分は癌になってあの世にいった。
★サラリーマン戦士で終わらずに、自由に動けたのだから、高校時代の今でいうキャリアデザインの葛藤は私よりも父に影響を与えたのかもしれない。葬式のときに、父と一緒に働いていたスタッフの方々がおしよせてきた。会社を辞めて数年たっているのにと思っていたら、本社で冷遇されていた私たちを引き連れて会社をつくり、自社株を買うことから始めてくれたと話を聞いた。なんだ、今でいうストック・オプション的発想じゃないか、はやく言えよと思った。
★おやじが、私にむかって危険思想におかされているのではないかと指摘した時、芥川龍之介の侏儒の言葉の一節を思い出していた。「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である」と。だから、親父の方が危険思想なんだよと思ったが、そういい返さずに、危険思想をなんとかするほうに回るといって、互いに違う意味で了解するという作戦を考えついたわけだったが、おやじも当時の常識をいかに破るかという想いで仕事をしていたのかと、お通夜の時に思ったのだった。遅いよ。
★それにしても、なぜ芥川龍之介の全集が我が家にあったのだと、葬式の後、おふくろに聞いたら、それは自分が若い時に読んだ本だと。エッ!そうなの。まったく想定外だった。おふくろは、悩む人ではない。父にも頼らず生きてきた人だ。おやじは、退職後、ニコニコおふくろの付き人然としてついて回った。おふくろはめんどうだと言っていたほどだ。だいたい、おふくろは結婚前はお役人だった。
★青春時代は、熱にうかされる。おまえもそうだろうぐらいにしか思ていなかったが、どこでどう間違ったか、どんな仕事をしているかわからない。まあ、生きて行っているのだから、かまわないがと。そして、おもむろに、おふくろの父親は、彼女が小学校2年生の時に亡くなった。政治犯で逃亡して樺太あたりで亡くなったらしいとボソッと語った。
★血は争えないというコトかなと。おいおいこちらは危険思想家ではないよというと。母が父親をかばうように、何を言っているのだ、戦争中だから政治犯だっただけで、おもえのいうなんとか社会をよくしたいというやつじゃあないか。おまえと同じだよと。でも、それでは、生きていけないよ。芥川龍之介は、青春の思い出に過ぎない。まともにおいかけてはいけないと。
★まともにおいかけてはまったくいないから大丈夫だよとこたえたが、まあ、父を失い、子を失うのは、宿命かねと言われたときには、少しこたえたかな。それきり、おふくろは、こちらから連絡しない限り、連絡もしてこない。こちらは、弟夫婦にまかせきりな親不孝者である。
★とにかく、両親との話し合いを収めるにあたり、私の下した結論は法学部に行くというコトだった。芥川龍之介の親友恒藤恭が法哲学者だったということもあり、法学部に行ったって哲学は学べると浅はかにも思ったのだ。両親は司法試験でも受けるのだろうと、まあいいかというコトになった。
★大学に入ってからは、もう両親も諦めたのであろう、生きて行けるのかねえというのは口癖だったが。とにかく、寮生活は、私の視野を相当広めた。多くの先輩や友人たちは、きちんとした企業、政治家、大学の教授になっている。一度寮(聖ヨゼフ修道院)が閉鎖されるというコトで、懐かしい顔ぶれが集ったときがある。
★そんな中で、寮で出遭った友人の1人が神父になるというので、ただごとではないと、その進路について、何度も話し合ったが、君の考えは、危険思想なんじゃないのと、侏儒の言葉を引用されたとき、まさに、自分が小さき人間であることに思い知らされた。
★娘と進路やキャリアについて対話するとき、私はそのときのシーンを思い出しながら、話す。アーティストとして食えない道を歩み、国際結婚してバンドンと東京を行ったり来たりしている。妻は、夫婦ともにアーティストだから、生活を心配しているが、まああなたの子だもねと。そして、娘も、キャリアデザイン(今も続いているのだ)の話に触れると、グローバルの重要性と起業のはなしばかりしていていたよね。だからしかたがないよ。親の影響は嫌でも受けるものだからと。彼女なりの共感を得て、自分の道を応援してもらおうという算段なのだろう。やはり血は争えない。
★ある学校のオーナーに、本間先生は、中学入試の世界では、ちっとは名前が知られているけれど、そうではない世界に出たら、無名だよね。これからどうする。うちの顧問になるかい、うちの先生1人辞めさせれば、そんなことは簡単だよと。ありがたいお話を突然頂き、恐縮したが、そのために先生を辞めさせるわけにはいかない。それに、そのときは、私が壁にぶつかっていたときのことだから、温かい励ましの言葉以外の何ものでもない。まともに受けとめるのは無粋である。それよりなにより、本当に心の底に染みた。
★この歳になって、十牛図の十番目に一瞬到達した気分になった。もちろん、まだまだである。でも、自分のキャリアデザインは、ここにきて案外わるくなかったのではないかと。次の次元を開く機会がまたやってきたのではないかと。十牛図の十番目のキーワードは「対話」である。
★ひたすら、先生方や子供たちとの対話の時間を共有させていただく毎日である。
★今高校生と話をしていて感じるのは、少なくとも47年前の自分よりはるかにすさまじい人生に立ち臨もうとしているし、そのためのスキルや思考力も相当に豊かだ。だいいちICTなど、私の高校時代には身近にはなかった。海外留学している生徒も全校に1人いたかどうかだ。
★今も昔も、その都度激動の時代だったが、どう考えても、自分の時代よりもはるかに高校生や若い先生方は成長している。彼らに対して常識を実行する危険思想を排除すること。それが私のもうひとふんばりできるミッションかもしれない。ウザイと思われるかもしれないが(^^;)。
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