★ようやく本来の意味の「コア」について学び合えるプログラムが実践できるようになった。ただし、これは「コア」を暗黙知として有している人材としかまだできない。構成主義的発想をもっていることが前提なのだけれど、疑似的構成主義者には、まだ適用できるプロジェクト型プログラムはできていない。
★今月出会った若い先生方(高尾山で行った)は、すばらしく潜在的才能があった。つまり「コア」を有していた。もちろん、まだそれぞれの先生方がほよんど気づいていない。また京都で行った若い役職者の方々も同じだった。とくに全員英語が達者だったから、概念の差異に超敏感で、ダメ英語な私なのにポンポン放つメタカタカナ語に禁断症状はまったく現さなかった。
★時代は本当に変わった。これまで、このような人々がたくさんいるワークショップは、聖学院や静岡聖光学院の先生方と行うコトができたが、たいていの場合は、「コア」を有していない方々も交じっていて、ワークショップが学習する組織に収斂せずに、シナジー効果が生まれにくかった。盛り上がりはするが、それは相乗効果というものではなく、そこに参加した幾人かの方々が自己マスタリーとして気づきを得ていたというのが多かった。
★でも、時代は本当に変わった。少しずつ共鳴共感する方々が増え、磁石のように一期一会が生まれいく。おそらく今週また二か所で行う創発対話で、そうなるのではいかと期待している。というのも、集まってくる人は勉強しに来るのでも学びに来るのでもなく、学び合いその都度生み出そうというモチベーションがある方々が集まってくるからだ。そういう仲間でやろうと意志をもったメンバーが集まってくるのだ。
★実は自身が構成主義かどうか自覚していなくても、「コア」を持っている人はいる。その方々は真正の構成主義を体現することになる。ところが、道具至上主義、マニュアル至上主義、教科書至上主義であるにもかかわらず、自ら構成主義を標榜する疑似構成主義者がいる。
★この方々は、教育界より産業界に多い。だから、その産業界の疑似構成主義の洗礼を受けている学校はかなり辛い。そういう学校では、私は「コア」を持っている先生方を探し、その「コア」をいっしょに堀り起こす作業をする。もし全体の13%のメンバーが「コア」を暗黙知から可視化へ引き出すことができたら、その学校は疑似構成主義者の餌食になることを回避できるからだ。もちろん、管理職が「コア」を持っていたら、そもそもそのような産業界は選ばない。選択センスが起動するからだ。
★IBのコアカリキュラムの影響は、新学習指導要領にかなり与えている。「探究」という言葉が流行るのはその表れである。しかし、IBの場合、TOK、CAS、EEの背景に欧米の哲学的メカニズムが伝統的にあり、それが「コア」を生成し続けていて、その現実態がTOK、CAS、EEだから、問題ない。
★ところが、戦後日本の教育は、この哲学的メカニズムは排除されてきたから、「コア」が育たない負のメカニズムができてしまった。そこから抜け出るには、「教科書」を捨てて外に出て「経験」から学ぶ必要がある。しかし、大人になってからだと、かりに「経験」したとしても、「経験」から学ぶ「コア」としての内的オリジナルの学びのモデル=プロトタイプがないから、汲み取れないという矛盾をなかなか解くことができない。
★疑似構成主義者のコアは、思考の内的メカニズムが空洞化したマニュアル主義になる。どんな教師もできるようになるハンドアウトとか作らねばならない。それでできるようになった試しなど今までないのは歴史が物語っているだろうに。
★クリエイティブ・ラーニングは、この「コア」を生成する「経験」プログラムをマインドセットすることからはじまる。その「経験」は命知らずの冒険から、路上の石や植物を観察する地味なものまで、あらゆることを含む。読書することも、バスケットをすることも、楽器を弾くことも、歌を歌うことも、木工作業をすることも、絵を描くことも、レゴを活用することも、宇宙レンズを観察することも、数学の問題を考えることも、キャリアについて思い悩むことも、すべて「経験」としてとらえ返すことができるかどうか。
★ここにあるものすべてに共通する構造が見えたり、その上で差異に気づきその構造を組み替えたりつくりかえたりする創造的破壊(ピアジェでいえば「同化」と「調整」)としての学びのモデル=プロトタイプとしての「コア」を互いに切磋琢磨していくのが、クリエイティブ・ラーニングというPBL型授業の面目躍如。
★そして、学習する組織は、そのオリジナルのコアに基づく言動の特徴としての各人のメンタルモデルを尊重し合えるかにかかっている。コモンコアをいっしょに持ととうというのは似非構成主義だし、似非共同体主義である。コア教科を共有できるというのは、反構成主義である。
★真正の構成主義や共同体主義は、それぞれが「コア」を生成する環境を共有しようということなのだ。それがミッションだ。「愛や誠」がミッションなのは大切なことだが、その文言を共有するコトがミッションなのではない。その文言を実現する各人の「コア」としての学びのプロトタイプを磨き上げ、多様なアイデアの結晶体が、愛と誠であればよいのである。
★会社であれ、学校であれ、コアなきミッションの共有は独断主義になる。
★そうならないように、互いのコアが一瞬であるが可視化されるメディアが、井庭崇先生が編集制作されているパターンランゲージである。学習する組織において、主にリフレクションで活用するのは、上記写真のカード。枚数が少なくて全体感がイメージしやすいという理由もある。
★カードそれ自体の使い方を経験することもやるが、リフレクションで活用することが多いので、そのカードを通してどんな自分の学びが見える化されるか経験することが中心になる。そのとき実は、各人のメンタルモデルが見え、シェアできる。そして、コアがないメンバーがいると、学習する組織はなかなかできず、ピラミッド型の抑圧組織に成らざるを得ない悲しい場面に遭遇するときもしばしばである。
★ところが、今月に入って、なかなかすてきな学習する組織衛星がたくさんできているので、時代が変わったし、私自身自己変容を始めたのかもしれないと思う日々なのである。
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