学校改革を考える(01)総合的な探究の時間は諸刃の剣
★学校改革を構想している方々とのブレスト会議に参加するために京都に来ているが、その中で「総合的な探究の時間」について学校改革にどのくらい寄与するのか話さなくてはならないので、昨年7月に文科省が公開した「高等学校学習指導要領解説 総合的な探究の時間編」(以降「探究解説」)を読み返した。といっても、文科省のこの手の文章は、あえて繰り返し表現内容が多用されているので、どうしても斜め読みになってしまう。
★AI社会や第四次産業革命に対応する才能児を育成するために、従来の教科型授業で終始するのではなく、学力の三要素をベースに、創造的問題解決型人材を育成しようという国力保守のための新しいカリキュラムを創ることが目標になっている。
★子供一人ひとりの課題意識にこだわり、そこから社会的実践としての問題解決力という資質・能力(もちろん多様である)を豊かにしたいというのはよいが、それが国のためのとなるのは、多少どうかなと思うが、公立学校は自治体や国が牛耳っていることは確かである。しかし、事の根本は、子供の学習する権利をサポートする奉仕者としての役割が自治体や文科省の使命であるというのが法律的枠組み。それを逸脱しているのではないかと気になるところではある。
★それは、まあ、括弧にいれておくとして、「探究解説」冊子に幾つか掲載されている図の中で、上記のものに、ある程度探究の構造がイメージ化されている。これを見て、やはり思うことは、「思考」というものが断片化され、横断型だという割には、要素分解型であるという矛盾がここにはあるのに落胆するわけだ。
★したがって、学校は「総合的な探究の時間」を入れる事によって、ケイオスになり、結果学校は変わるという文科省の目論見が透けて見える。
★また、横断型といっても、知の内的連関については、まったく考察されていないから、パッチワークになり、シナジー効果は起きない。組織は改革というより、ただただ忙殺されることになる。そして、効果が出ないわけだから徒労感・脱力感・停滞感が広がる。
★知の内的連関をなぜ考えないかというと、文科省が考える能力がないからではない。むしろ逆だ。能力が高いがゆえに、曖昧な表現で、あたかも構成主義的方法論で創っているように見せかけて要素還元主義的手法を貫くというアクロバティックなやり方をしているのである。
★要素分解しておいて、学校の教師があれもこれもできないという状況と働き方改革を掛け合わせて、もうそれぞれのパーツは、それぞれの外部団体に任せようよという流れをつくっているのである。それをもってコラボレーションというらしいが、知の内的連関について、かかわっている団体同士が議論している姿をみたことがあまりない。
★かくして、それぞれのパーツを担当するだけから、知の内的連関という本来の子供たちが必要とするホ―リスティックな知の関係は育たない。
★したがって、この「探究解説」に即してカリキュラムを組むと子供の知が自己分裂を起こしてしまう。その内的分裂は、子供の内面に不安や自己否定感を生み出すおそれがある。
★全体を感じることができず、部分に反応することしかできない。その反応をモチベーションと錯誤して、「いいね!」と声をかけるから、ますます変になる。
★しかし、文科省としては、教育によって経済が回るという、ブレアークリントンの教育経済政策を今も水面下で走らせているだろうから、それはそれでよいのであろう。
★「探究」それ自体は、大いに歓迎なのだが、やり方次第では、改革にもなるが、停滞も生み出す。改悪にさえなるかもしれない。実に両刃の剣である。
★したがって、「探究」に改革の期待をかけるのではなく、その「探究」のカリキュラムを自ら創ることができる教師の存在がまず第一である。そして、その教師が外部団体をコーディネートしていけるスキルを身につける必要がある。
★学校経営者は、人材育成を抜きにパッケージを入れれば学校はよくなると思ってはいけない。基本中の基本で当たり前の話なのであるが。。。
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