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2018年12月31日 (月)

「中学入試と未来予測」(6) 英語を話せる日本人の未来を誰が支えるのか?

★東洋経済新春合併号のコラムで苅谷剛彦氏(オックスフォード大学教授)が、≪「英語を話せる日本人」の未来像≫を掲載。その中で、2020年の大学入学共通テストにおける民間団体の資格・検定試験の採用について、東京大学や東北大学などいくつかの国立大学が保留している点について述べている。

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★苅谷氏は、総合学習の導入の時から、PBLやアクティブラーニングは教育政策上うまくいかないと批判的だった。今回もその流れの発想なのかもしれいない。社会学者だが、未来学者ではないから、現状を批判し、自分ではどうしたらよいのか述べることはない。

★これは同じように批判している紅野謙介氏、鳥飼久美子氏、阿部公彦氏、南風原朝和氏などもそうだ。みな大学教授。

★民間試験の採点の公平性や受験料の支払いに関する格差があるからなど主に公平性を問題にしている。そして「拙速」だと。

★この「拙速」という思考停止用語が凄すぎる。従来の英語教育はなんとかしなければならないが、今回の改革は不備があるからやらないほうがよいのではないか。学者として警鐘はならしたよというコトだ。

★おまけに、苅谷氏や紅野氏は、こんなに拙速なのは、日本人は英語が話せないとかコミュニケーションが得意でないというコンプレックスがそうさせているのだろうと。

※紅野氏はサイトに「〈コミュ力不安〉という病に憑かれた「センター試験改革」の危うさ。」というエッセイを書いている。

★苅谷氏は、自分は英語で仕事をしているが、現代の英語教育改革レベルでは、とてもじゃないが、自分のような仕事ができるレベルには到達しないと語る。しかし、だから、英語教育の改革を一歩でもすすめようではないかとはならない。

★日本人が英会話ができる程度になっても、その未来像はしっかり描かれていないからこんなんではダメだろうと。「劣等感の裏返しは、空虚な理想の実現でしかない」と締めくくる。

★学者なんだけれど評論家然としたアティチュードである。

★しかしながら、この国が変わらないのは、このような国民の税金を使っている国立大学の人々が、まじめに国を変えようとしないからではない。そもそも、このような批判は大勢に影響はない。生産年齢人口がもうすぐ半減する。税金を集めにくくなる。研究費もどんどん減少する。

★いずれにしても、英語ができるようになれば、今以上に、大学入学共通テストなど関係なく、国内外大学選択はできる。何も英語の力は大学受験で身につけるものでもない。それに、英会話ができる程度でも、日本人全員ができるようになることは、苅谷氏のようにオックスフォードで働かなくても、ビジネスチャンスの確率が高くなるのは火を見るより明らかだ。

★自分たちの食い扶持をなんとかしたいという思いを、劣等感だとかコンプレックスの裏返しだとは、片腹痛い。

★未来像が明確に描かれていないとはよくいったものだ。明確なんだよ。このままいけば今の小学校6年生から国力半減の日本に突入するのだ。だから、国力を維持するか、別の方法で乗り切るかしなければならない。公平性とは、世代間の格差のことも考えるというビジョンがちゃんとあるのだ。


★そのときに英語は一つのカギであるのは否定できないだろう。オックスフォード大学で教えるのに英語は必要だろうが。もちろん、英語だけではなく、多言語が大事だから母語も大切にしようというのもわかる。しかし、一方で、東南アジアで新しい共通語を作ろうというアーティストもいる。

★一体全体、こういう未来をデストピアにしないようにするのは誰がするのか?国家?大学の先生?国民?・・・・・・。そこに希望はないだろう。

★新しい人間の創造しかない。そのような人間のイノベーションを起こすことができる教育と大学、起業が必要だ。新しい都市デザインが必要だ。その都市を支える新しい金融市場が必要だ。


★苅谷氏をはじめとする学者の批判は、だから自分たちは何を提案できるのかというとそれもできないという臨界点に立っているという告白である。

★わかった。だから君たちには期待しない。はじめから期待をするゆえんもないが。それはともあれ、未来は、自分たちで創ればよいだけだ。創ることは自由なのである。そんな例は歴史を顧みればいくらでもある。今年は、明治150年。

★明治もまた創られたのである。そして、創ることの楽しさと痛みを共有する新しい人間は、すでに動き始めている。動いているから、動いていない側から批判がでるのである。動けないことに対するコンプレックスの裏返しが、そういう批判になるのであろう。

★いずにれしても、大学入試改革がうまくいかなくてもいっても、危機は目の前にきている。どちらにしても、その危機を防ぐことはできそうにない。煽っているのでもなんでもない。来るものは来るのである。逃げる用意をするのも回避する用意をするのも同時に両方やっておく必要があるのはもはや明白だ。


★2025年まで、なんとか日本は猶予期間がある。その間に準備をしたい。中学入試における新タイプ入試やi専門職大学などの新タイプ大学はそのサインである。そのサインをしっかり受けとめている多くの人がすでに活動を開始している。その流れを、明日に生かしたい。共に。

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