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2018年9月 4日 (火)

眠れる美女=人類の子供たちを救うのは何?物語思考かも。

★人間の心の深層から眺めなおすことも、発想の転換の1つなので、ときどき童話に立ち戻る。童話の重要性について気づいたのは、娘が物心ついたころらマンガの童話本をかたっぱしから読んでいた(眺めていたというのが本当だろうが)のがきっかけだと思う。

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は★僕の20代は、休みは週に一度で、妻が美術の教師をしていたから、平日休みをいれていた。休み一日とは、若かかったとはいえ、疲れまくっていた。だから、娘を乳母車に乗せて、近所を散歩することぐらいしか、面倒をみることができなかった。

★今は本当に姿を消したが、そのときは、小さな自営業の本屋が、家の近くに三軒もあった。毎週、場所を換えれば、違う道を散歩できるので、ルーチンにはならないかなと。

★そのとき、娘は絵本ではなく、マンガの童話本を手に取って、ずっとながめていた。ずいぶんシリーズがあったから、毎週1冊買うのだが、不思議と買う本は乳母車にちゃんと入れて、あとは他の童話本を手にとってずっと居座るのだ。

★この本買って家で読もうねといっても、動こうとしない。2時間くらいはいるのだ。しかたがないから、私も自分の本を先に買って、ちょっと離れたところで読んで待っている。

★ちょっと離れていないと嫌だというそぶりを見せるのだ。まだ日本語を発していなかったころから。今でいえば、ゲームやスマホ中毒のようなものだろうか。マンガをそんな小さなときから見せてと叱られるかもしれない。ただ、うちには小学校に娘が入学するまで、テレビはなかった。

★友人の家で、夜遅くまでテレビを見ていて帰ってこないということが発覚してから、テレビを買った。そんなこともあって、ずっと読み聞かせるわけにもいかないので、マンガの童話本は重宝したのかもしれない。まったく今のゲームやスマホをいじらせているのと変わらない。自分欲優先の若い時代の発想。父親はかくして未熟なものなのだ。自分の読みたい本が優先なのだから。

★しかし、彼女はマンガが格別好きなのではないということがだんだん明らかになっていった。自分ひとりで没入できる道具とか事柄が好きなのであった。

★ディスニーランドに行くことを何度か試みたが、あまり興味を示さないということに気づき始めて、あれっと感じるようになった。ファミコンも私がRPGにはまったが、彼女はまだやっているのと冷ややかだった。今でもディスニーランドは行かないし、ゲームもやらない。しかし、Macのヘビーユーザーだ。

★娘夫婦は、移動手段が飛行機の場合が多い。シンガポール、マレーシア、インドネシア、香港、台湾、日本は、アジアの人々にとっては、一つのエリアで、そこに国というパスポートが必要な関所があるみたいなものだろう。

★だから、Macと映像編集用のMicrosoftのラップトップを小さな体にかついで移動している。

★さて、タイムラインがゆがむが、中学の時、彼女はオカダ・マスダにはまっていたり、ロックにはまって、バンドをやったりした。ラルカンシェルのハイドのファンで、クラシック好きのパパとは口をきかなかった。オペラ好きのママとは、ファッションの話では盛り上がっていた。

★でも美術館にはよくいった。家族3人でいって、仲良くかと言えば、まったくそうではない。僕は、さささっと何回もグルグル見て回って、気にいったものだけじっくり見る。妻は、コンテンツというよりは、画材や絵の具や光と影がどうのこうのといいながら見ていた。わかっているものは、飛ばして、それでも僕よりもゆっくり見ていた。

★娘は、物心ついたときの本屋で時間を費やした時と同じように、一つひとつじっくり見て、説明の表示も一言一句飛ばさず読んでいた。

★私は、ひとり出て、ロビーに座って本を読んで待っていたものだ。

★中高時代は、ほとんど話した記憶がお互いない。あとからわかったことだが、記憶がないのではなく、暗黙のプレッシャーがこわかったから意識して遠ざけていたと言われて、何それ、どうしてそう感じたのかと聞いても、何となくだね、今は違うからいいじゃんで済まされる。

★しかし、この間、娘にあれやこれや荷物を送ってくれといわれて、娘の部屋で探し物をしていたら、偕成社文庫の「グリム童話集」が3冊書棚にならんでいるのを見つけた。たしかに、小学校のころ、寝ても覚めてもこの本を読んでいたなあと記憶が呼び戻った。

★中学の頃は、村上春樹やよしもとばななだったが、小学校高学年は、グリムだった。グリムのことについて、そのころも今も話し合うことはない。尋ねてみたことがあったが、もう忘れてしまったとあっさり。たぶん面どうだったのだろう。

★彼女の小学校の頃の学校の作文集もあったから、読んでみたら、こんなこと書いていたのかと改めて驚いた。父親というものはやはり未熟なものだ。娘は、松谷みよこも好きだった。そうだ、民話や童話の向こうにある人間のいろいろな思いをなんとなく感じていたのだ。だから、斜めから見る視点をもってしまった。

★僕もおそらくそういう心理学的神話を通して見られていたのかもしれない。そんな彼女の世界観は、どうやらずっと続いていて、道具や研究対象が変わっただけで、童話をいかに解釈するかというのと同じで、「Something」をいかに解釈して、それを映像という表象にするかということをやっている。

★大学時代まで、英語は不得意で、何をやっても頭に入ってこないといっていたのに、イギリスに4年間行ってから、別人のように英語を使うし、インドネシア語などもかなりつかう。言語に関しては、いつの間にか貪欲。グリムは法律学者であり、言語学者でもあったような記憶があるが。。。

★ともあれ、今は、グリムではなく、アジア圏の文化や言語が対象になった。そして、歩き回っているうちに、この文化や言語を、ニッコリ笑っているアジアの友人たちの背景に、それを阻害したりとんでもないことをやってきた日本人の歴史を見出してしまった。

★インドネシアと長崎をつなぐバタビア時代からの歴史物語にグリム童話と同じ構造を見出したようだ。そこをリサーチして映像表象をアートしている。


★義理の息子は、ミクロ・ナノレベルの細胞や微生物の目から世界をみるアーティストで、娘夫婦と話しているとクリエイティビティとか大学教育の在り方とかアート資本主義という経済とかスタジオという彼らのアート活動の空間の話とかなかなかおもしろい。

★日本語とインドネシア語と英語といろいろ混ざって話しているうちに、理解するとは外的言語ではなく内的言語をつくることなのだと言い始まって、この秋、なにやらトカスをギャラリーにアート活動をすることが決まったようだ。

★相変わらず彼女はものごとを斜めから見るけれど、アート資本主義とまともにぶつかっても生きていけないことは熟知していて、特に日本の美術館は、文化庁がしきっているところが多いから、政治的理由で作品が排除されてきた多くの友人を見ているし、自身もメディア芸術祭の企画を文化庁とやってきて、拠点を海外に移すことで、なんとかしようと思ったのだろう。現状は残念な日本のアート環境というわけなんだろう。

★娘とは、中高時代長い間話さなかったが、ニューヨークあたりを友人岡部氏(今は、ある中高校の教師)とリサーチしていた時、よく電話がかかってきていた。「なんだ娘とうまくいってるじゃん、おじさん、よかったなあ」とよくからかわれた。

★しかし、美しい親子の愛情の話ではなかった、大学入試の小論文対策の話。セネカの「怒りについて」を丸ごと読んできて、そこから何やら問題が出るというんだけど、はじめての試みで、サンプル問題とかないんだよどうしたらよいかなあ?

★とかいうことで、当時ガラケーで、国際通話は制限をはずして海外に出てきていなかったから、すぐに通じなくなったが、今のようにメールとか手軽につかえていればよかったが、ホテルからの電話とかつかって、話すしかなかった。

★それからというもの、論文は一度パパの目を通すというコトが始まった。今でも企画案は送られてくる。芸術なんて素人だよと言うと、多くの目を通すことが大切だし、だいたい斜めから見るの得意でしょと。心の中では、その言葉そのままキミに返すよと。

★そうはいっても、よくわからない。だから、アピールしたいキーワードはどこに書いてあるのと聞くことが常態化している。娘の方も、そう聞かれると思って、ここに配置しているけれど、気づかない?そんな後ろにあったのかあ、もっと前にもってこれないの?やっぱり、そうだよね。前提をどうしても言いたくて、わかっているけど、そうなる。ありがとう、書き直すから、また見てというのが、いつものルーチン。何か高度な話をしているわけではない。

★なかなか眠れる森の美女の話にならないが、娘も義理の息子も、人類の子供たちである。その子供たちが1人ひとりの世界を内側に抱き、そこから外を見ている。でも時々、その内側の世界を彼ら自身超えようとする。それは民族も宗教も年齢も文化も超えて多様性の中で対話があることによって、そういう意志が生まれるようだ。

★眠れる森の美女は、どうもその人類の子供たちの内側に広がる世界なのかもしれない。そして、その世界をつつんでいる茨の森は、ときに子供たち一人ひとりの目を養っていると同時に、どこかで解かれときが来るものでもあろう。もちろん、再び、違う森が包むのであるが。

★そのとき、娘が読んでいたグリムにはでてこないが、茨の森を守るドラゴンがいる。そして、こちらは、グリムに登場してくるが、眠れる森の美女の目を覚ます王子がいる。

★さて、パパはドラゴンなのか、王子様なのか?王子様な訳がない。ではドラゴンなのか?まさか。眠りの森の美女にドラゴンを登場させたのは、ディスニー映画なのだから、別のキャラクターをさらに追加登場させようではないか?

★はてしない物語に登場する竜であってもよいだろう。ドラゴンはヨーロッパ的、竜はアジア的で役割が違うらしいし。

★これを学校に置き換えたらどうなるだろうか?社会に置き換えたらどうなるだろうか?論理的思考とか数学的思考とかアート思考、デザイン思考とかいろいろあるけれど、物語思考というのは、意外と大事かも。そして、物語思考が有効だとするならば、幼き頃の本との出会いは、結構大事かもしれない。

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