聖ドミニコ学園 古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る
★20年以上前、JGの斎藤院長に急遽同じくらいの時刻に呼ばれて、対話しに行ったときのことを思い出した。薄明りの空間の中で、言葉は一際輝いていた。
★クリスチャンの理事長や校長と対話すると共通するのは、極めて控え目で、かつ確信をもって静かに話されることだ。もちろん、恵泉の加藤校長のようにユーモアも添え、相手の緊張を和らげるケアの精神にあふれてもいる。
★世俗的な私は、どうしてもイノベーションの意味を高らかに語ってしまう。それを寛容に受け入れてもらえるのだが、「新しい」という意味の重さの差異を、じっくり確認されているのもわかる。
★たんに、AI社会の到来で、仕事がなくなるとか、高度人材が不足するとか、そんな理由で新しい教育に変えていかなくてはならないと語ったとしたら、おそらくその対話はその日で終わりだろう。
★そうは言っても、こちらは世俗のあかにまみれている。デジャブというかトラウマというか、このような対話の雰囲気のときに、思い出すのが、学生時代カテドラルで目の前でお会いしたマザー・テレサの眼差しである。
★世の中に右顧左眄する心の弱い人間でかわいそうと、その眼差しは私の胸を一瞬にして貫いたのである。痛かったし、今もその痛みは続いている。
★そんな古い人は脱ぎ捨てて、新しい人を着なさい。その真理は、あなたを自由にするのだからと。そうはいわれても。。。それゆえ、痛みは続いている。
★山崎先生も、まったく同じで、世の中からみたら、聖ドミニコ学園は変わるのが遅くて、そこが弱みではないかと言われるが、真理から見れば、そうではないかもしれない。変わることが真理の養成という首尾一貫したものであれば、それはもう大きく変わるのは当然だが、そうでない場合、新しい服をきた古い人がやってくるのだるから、断固拒絶しなければならないのだ。
★それが現代社会の行き詰まった閉塞状態の正体ではないか。弱いからこそ強い教師が集まった組織である。そこを見抜ける眼差しを持っている。
★理事長室に移動するとき、小学校の廊下を歩いたが、真ん中に折り鶴が並べられていた。山崎先生は、「生徒たちが、廊下を走ったら罰するというようなルールをつくるより、廊下を走らないように自ら気遣う工夫をした」のだと説明してくれた。
★主体的で対話的で深い学びの構えがこの廊下に並ぶ折り鶴の姿に象徴されていたのだ。とかく世の中は成長や進化、発達を強いがちだが、自らの内側から発想が生まれてこない限り成長はしない。
★「古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」とは、パウロの手紙(新約聖書・エペソ人への手紙4:17~24)にあるが、山崎先生が大切にしている言葉だ。そういえば、大江健三郎もここをモチーフに小説を書いていたはずだ。
★2020年オリンピック・パラリンピックが終わるや、あらゆる古い人を時代が吐き捨てる。迎え入れられるのは「新しい人」となる。聖ドミニコ学園は自ら真理を見出した時、大きく変わる。いよいよその時がやってきた。
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