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2018年8月24日 (金)

言葉と思考

★池田修教授(京都橘大学)は、Facebookで四季折々の自然と「飲み物」の写真を掲載され、なんといっても「俳句」を詠まれている。ときどき拝読ならぬ拝視しているのだが、Facebook全体が詩になっていて、瞬間想いを遠くに飛ばせるのが心地よい。

Yaba

★しかしながら、こうして述べていること自体、せっかくの「軽み」ある池田教授の空間に対し野暮な話であるが、言葉と思考についてイマジネーションをもらった投稿について感想を書きたくなった。さらに無粋であるは、承知で。

★池田教授は、あるとき窓から見上げた(のだろう)行く雲の空の写真を撮り、そこに

「行く雲を寝てゐて見るや夏座敷」

★と添えた。志太野坡(しだやば)の句である。


★この野坡の句自体、実に切迫した壮大な句であるが、その緊迫感がさらり、ぴたりと写真となじんでいるのである。

★植物と空全体が視界にはいってくるのだけれど、そこに走っている雲が広がっている。風と雲、そして空の青を映し出す日の光が動き出す。この漂白とした切迫感。美しいけれど、何か身が引き締まる。でも、それは全面にでない。

★野坡の夏座敷で寝転んでいる姿が、一見美しい自然を見ている安定したというか安堵感を漂わせるからだ。しかし、芭蕉十哲の一人である野坡である。当時の状況を考えれば、漂泊に身を置いて自然と心を結び付けて言葉を表出することの緊張感と切迫した気持ちは、はかり知れない。

★漂泊者野坡は、写真では、隠れて見えないが、行く雲が野坡の心境を乗せている。そして、その壮大な空から夏座敷をみると、そこは座標点に過ぎない。そこにある切迫感や緊迫感は無に帰する。

★壮絶な生き様を、無に等しい構図で描き切る軽やかさ。そりゃあ夏座敷で一杯が似合うはずだ(笑み)。

★かくして、写真と言葉がぴたっとマッチングした投稿を拝視して、写真と言葉がなじむのは、池田教授の感性であり、その感性は確率的関数によって可能なのだろうと感じたわけだ。

★こうした思い付きは、まったくの野暮無粋の極みだが、言葉と思考は結びつくのだが、この感性という数学的思考でなければ、言葉と思考の首尾一貫性は崩れ、別モノになってしまう。

★関係、すなわち関数関係という数学的思考と言葉は、妙に親和性がある。教育の根っこは、ここにありそうだ。

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