GLICC グローバルアドミッションウェブセミナー 開催準備進める。
★同セミナーの参加者は、大学生や高校が中心となるが、誰でも予約さえすれば参加できる。共通言語は「英語」。
★鈴木氏は、未来の教育をすでに拓いているヒーローが集うチームG2Cの仲間で、関西の仲間とZOOMで対話をするスペースとしてGLICCを提供している。
(G2Cダイアローグで。中央が鈴木氏)
★一方、鈴木氏は、帰国生の大学入試のコーチングや海外大学のコーディネーターも行っているので、世界各国の体験値豊かな学生のネットワークを持っている。彼らと学んだり話しているうちに、次のような着想を得たようだ。
★一方、鈴木氏は、帰国生の大学入試のコーチングや海外大学のコーディネーターも行っているので、世界各国の体験値豊かな学生のネットワークを持っている。彼らと学んだり話しているうちに、次のような着想を得たようだ。
日本国内でしか通用しない偏差値で大学を選ぶ時代は終わりました。いまやグローバル化の流れは大学選びにも及んでいます。そのような時代において、将来のキャリアをどう設計し、どのような大学学部を選択するのかは、高校生にとって重要な課題です。
高校1・2年生の段階で文理選択などという乱暴な割り振りで人生の選択肢が決まってしまうようなあり方ではなく、専門性に加えて豊かな(well-rounded)人間性を育む学びを実現する柔軟な進路選択のあり方を、高校生や大学生の側から発信していくことがこのセミナーを開催する目的です。
★昨夜、セミナーのコアメンバーによって、プレセミナーが行われた。
★カルテック、UCL,東大、慶応などの現役大生で、GLICCでリアルスペース、サイバースペースの両方でチューターの役割を果たしているメンバーだと聞く。

★それぞれ、大学に進む際のアドミッションシステムが違う。AP、Aレベル、IB、Japanシステム。
★それで、プレセミナーでは、それぞれの体験に基づいた話になった。特にマスとサイエンスに焦点を絞っていた。Japanシステム以外は、計算機は使ってOKというのは、知ってはいたが、いっぺんに世界のシステムを比較することができる局面に出遭って、改めて日本と世界の力点の違いが浮き彫りになった。
★Aレベルのテストの最初のページがまた印象的だった。公式の類はすべてリストとして載っていて、考える過程で、使うものは、ここから使えというメッセージが、日本の学び方とは違う。
★さらに驚いたのは、明快なプロセスが最重要だというコメントだ。計算の結果が、正しくても、プロセスが明快でないと得点は高くない。逆に、結果が間違っていても、明快なプロセスだとハイスコアを獲得できると。
★日本の場合は、計算の結果が、解答で、その解答が正しいかどうかだけが問題であるが、Aレベルで要求している解答とは、プロセス全体がそうであり、最終的結果とプロセスを分断しないのである。
★どちらがよいかわるいか、そんな話ではない。メンバーは、あくまで互いの体験をファクトとしてダウンローディングしているだけで、対話の作法というものを身につけている。
★もちろん、この体験の中で出てきた、教科はあるけれど、それが中心なのではなく、フレキシブルに学際的に思考することが重視されているAPとかという話の蓄積が、次のステージで、フレキシブルに思考するとはいかなることかと概念化に進むのである。
★そこから先は、各個人がその概念を再定義・脱定義して、独自のアイデアを構築していく。これはエッセイ文化の海外の学生にとっては、当然のアカデミックスキルである。徹底的に体験値をファクト化することで、そこに問題を発見するスタイルである。各個人がこの思考様式、対話様式などのアカデミックスキルを有しているから、プロジェクトが成立する。
★それが良いか悪いかの価値判断はしないのが、対話のルールでもある。日本の場合は、フィーリングを大事にする対話が続く。アカデミックにはならない。しかし、そこから、ある本質が理屈抜きで現れるときがある。これはこれで、実にクリエイティブだ。しかし、それは評価できないから、入試制度では捨てられてしまう。
★それによって、思考の本来性が廃棄されているかもしれないとかという判断は、次のステージになるのだろう。
★そんな光景をオブザーブしながら、別のシーンを思い出した。先生方がワークショップを行っている時のことだ。取材していると、ステージを徐々に上げていくために、課題を発見する手順を踏みながら行われていることがすぐに了解できたのだが、こんな手順にこだわっているから日本の教育はダメなんだと叫んだ教師がああrわれて。
★プロセスを踏んだうえで、飛びましょうという対話ルールを、カタチにこだわる日本的発想だと感じたようだった。言いたいこと感じたことを共有するのが対話じゃないかとぶちかましていたわけだが、そのとき、ファシリテーターが、そうですね、ありがとうございます、そろそろいったんシェアしましょうと神対応した。
★シェアリングというループは、はじめから埋め込まれている対話のプロセスである。でもその教師は、自分の意見でプログラムを変えてもらえたと満足げだった。ファシリテーターにとっては、柔軟に、壁が生まれたら、そこでシェアリングするループをいれるというのは、いつそれをやるのかというタイムラインには明快になっていないけれど、内蔵プロセスとしては想定内だったわけである。それができたのも、きちんとリハをして、シミュレーションを重ねていたからである。
★話が横にそれたが、対話とは、そういうスリリングなものである。実際、そのときのワークショップに今回のチューターのうち何人かもサポートしてくれていた。ワークショップや対話は、サポーターという参与的観察者が必要である。
★軽やかで自由闊達で即興的に対話しているようにみえるが、そのバックヤードはなかなか重厚である。
★生徒が成長するには、この舞台とバックヤードの両方の運営を行う体験値がものをいう。授業も同様であるが、今までの授業はどうだっただろうか。生徒が成長する授業は、自らも、教え、学び、そのバックヤードの準備をシェアする必要があるだろう。
★予習とか復習とか定期テストとか評価とか、単品の羅列の授業は、アクティブラーニングというスタイルだとしても、子どもの成長には結びつかない。授業システムの脱構築を考える際に、このGAWSeminarはヒントになるかもしれない。

★それぞれ、大学に進む際のアドミッションシステムが違う。AP、Aレベル、IB、Japanシステム。
★それで、プレセミナーでは、それぞれの体験に基づいた話になった。特にマスとサイエンスに焦点を絞っていた。Japanシステム以外は、計算機は使ってOKというのは、知ってはいたが、いっぺんに世界のシステムを比較することができる局面に出遭って、改めて日本と世界の力点の違いが浮き彫りになった。
★Aレベルのテストの最初のページがまた印象的だった。公式の類はすべてリストとして載っていて、考える過程で、使うものは、ここから使えというメッセージが、日本の学び方とは違う。
★さらに驚いたのは、明快なプロセスが最重要だというコメントだ。計算の結果が、正しくても、プロセスが明快でないと得点は高くない。逆に、結果が間違っていても、明快なプロセスだとハイスコアを獲得できると。
★日本の場合は、計算の結果が、解答で、その解答が正しいかどうかだけが問題であるが、Aレベルで要求している解答とは、プロセス全体がそうであり、最終的結果とプロセスを分断しないのである。
★どちらがよいかわるいか、そんな話ではない。メンバーは、あくまで互いの体験をファクトとしてダウンローディングしているだけで、対話の作法というものを身につけている。
★もちろん、この体験の中で出てきた、教科はあるけれど、それが中心なのではなく、フレキシブルに学際的に思考することが重視されているAPとかという話の蓄積が、次のステージで、フレキシブルに思考するとはいかなることかと概念化に進むのである。
★そこから先は、各個人がその概念を再定義・脱定義して、独自のアイデアを構築していく。これはエッセイ文化の海外の学生にとっては、当然のアカデミックスキルである。徹底的に体験値をファクト化することで、そこに問題を発見するスタイルである。各個人がこの思考様式、対話様式などのアカデミックスキルを有しているから、プロジェクトが成立する。
★それが良いか悪いかの価値判断はしないのが、対話のルールでもある。日本の場合は、フィーリングを大事にする対話が続く。アカデミックにはならない。しかし、そこから、ある本質が理屈抜きで現れるときがある。これはこれで、実にクリエイティブだ。しかし、それは評価できないから、入試制度では捨てられてしまう。
★それによって、思考の本来性が廃棄されているかもしれないとかという判断は、次のステージになるのだろう。
★そんな光景をオブザーブしながら、別のシーンを思い出した。先生方がワークショップを行っている時のことだ。取材していると、ステージを徐々に上げていくために、課題を発見する手順を踏みながら行われていることがすぐに了解できたのだが、こんな手順にこだわっているから日本の教育はダメなんだと叫んだ教師がああrわれて。
★プロセスを踏んだうえで、飛びましょうという対話ルールを、カタチにこだわる日本的発想だと感じたようだった。言いたいこと感じたことを共有するのが対話じゃないかとぶちかましていたわけだが、そのとき、ファシリテーターが、そうですね、ありがとうございます、そろそろいったんシェアしましょうと神対応した。
★シェアリングというループは、はじめから埋め込まれている対話のプロセスである。でもその教師は、自分の意見でプログラムを変えてもらえたと満足げだった。ファシリテーターにとっては、柔軟に、壁が生まれたら、そこでシェアリングするループをいれるというのは、いつそれをやるのかというタイムラインには明快になっていないけれど、内蔵プロセスとしては想定内だったわけである。それができたのも、きちんとリハをして、シミュレーションを重ねていたからである。
★話が横にそれたが、対話とは、そういうスリリングなものである。実際、そのときのワークショップに今回のチューターのうち何人かもサポートしてくれていた。ワークショップや対話は、サポーターという参与的観察者が必要である。
★軽やかで自由闊達で即興的に対話しているようにみえるが、そのバックヤードはなかなか重厚である。
★生徒が成長するには、この舞台とバックヤードの両方の運営を行う体験値がものをいう。授業も同様であるが、今までの授業はどうだっただろうか。生徒が成長する授業は、自らも、教え、学び、そのバックヤードの準備をシェアする必要があるだろう。
★予習とか復習とか定期テストとか評価とか、単品の羅列の授業は、アクティブラーニングというスタイルだとしても、子どもの成長には結びつかない。授業システムの脱構築を考える際に、このGAWSeminarはヒントになるかもしれない。
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